父の空襲体験談

大空襲

 父は昭和2年生まれである。太平洋戦争時は大阪市に住んでいた。昭和20年3月13日にテニアン島、グアム島、サイパン島から274機のB29日による大空襲が行われた。
 防空壕にいた父たちには、豪傑気取りで入り口近くに陣取っていた友人が、爆弾が近くに落ちると一気に怯えて防空壕の奥で震えていたらしい。
 一般民間人の殺傷を狙った焼夷弾爆撃で3987名の死者と678名の行方不明者が出た。
 6月1日は509機のB29による爆撃、P51戦闘機が初めて来襲し機銃掃射を行なっている。
 6月7日は大阪を狙った大型爆弾が目標を大きく外れ市街地に落下するケースが相次いだ。
 また長良橋に爆弾が直撃、さらに機銃掃射も加えられたため、橋の下に避難していた約400人の市民が犠牲になった。
 祖父が朝になっても帰宅しなので心配した父が長良橋の死体の顔検分をしにいったらしい。凄惨な現場から疲れた足を引きずって自宅に戻り家族に報告をしていたら、祖父が帰宅し家族一同喜んだ。

戦闘機の機銃掃射

 爆弾より父が恐ろしいと思ったのは戦闘機の機銃掃射であった。見えている人間を的に機銃を撃つパイロットが見えるらしい。特に艦載機が怖いと言っていた。YOUTUBEなどでガンカメラの映像を見ていると一般民間人や民家などを滅茶苦茶撃っている。
 ある日の空襲で八尾の飛行場に次々墜落する艦載機を見て、みんなで万歳喝采していたら、墜落したと思っていたが機銃掃射しながらやって来て肝を冷やしたらしい。墜落ではなく急降下であったのだ。また日の丸が付いた戦闘機を見て手を振っていたら戦闘機が引き返してきて射殺された友人もいたらしい。「あれは日本人を騙すための日の丸や」と父はいっていたが、日本本土空襲していたイギリスの艦載機だったのではないか?日の丸に似た蛇の目のマークがイギリス機のマークだから勘違いしたと思う。

勤労奉仕

 父が勤労奉仕のため尼崎に向けて列車に乗っていた時に、戦闘機の機銃掃射を受けた。車内は酸鼻を極めて負傷した友人たちを連れて病院に行った。医師はまず助からないと判断した患者はそのままに助かりそうな患者の治療に当たる。父母の名前を呼びながら息絶える友人達を見ながら祈るしかなかったらしい。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪