私の特技
小学生から入隊したボーイスカウトでアウトドアの基礎を教わりキャンプは得意です。そこではアウトドアだけではなく集団行動として鼓隊があり、大太鼓、シンバル、中太鼓、小太鼓のどれかを担当することになっていました。不器用な隊員は大太鼓やシンバル、そこそこな隊員はマレットで叩く中太鼓、器用にロール奏法が出来る隊員は小太鼓(スネアドラム)を担当した。私は中太鼓でポンポコとマレットで叩いていましたが小太鼓にはあこがれていました。ザーーッと音を伸ばすロール奏法が出来ないので学校までスティックを持って行って休み時間にタンタカ叩いて練習していました。自宅で茶碗を叩くと箸が欠けると親から叱られていました。特に塗り箸など欠けやすいのでご法度です。それでも隠れて箸でロール奏法の練習をしていたら、塗り箸で練習をするので力を入れずロールが出来るようになりました。そうなると面白くて仕方がないです。鼓隊ではあいかわらず中太鼓でしたがむしろ中太鼓に愛着が出て来て中学校までずっと中太鼓でした。
その一方でドラムセットにあこがれるようになりました。歌謡番組のバックバンドで縁の下の力持ちとして叩くドラムをテレビで夢中になって見ていました。左足で踏むハイハットシンバルが踏んだら開くのか閉まるのかが、後にドラムセットを購入するまで解らず興味津々でした。それにもかかわらず、自宅で練習するための練習セットも作りました。ビスケットの空き缶の蓋をスネアドラム(小太鼓)にみたて、タムタム(中太鼓)はダンボールで代用しました。ハイハットシンバルは動くペダルスタンドは無いので何重にも電線を重ねてシンバルにみたてました。バスドラムは畳の上にマイクを置いてそれを踏むとたたいていましたを音楽を流しながらそれに合わせてドンシャンと練習台で夢中になって練習していました。それを見ていた両親もさすがに哀れに思って、進学で目標高校に合格したらビギナー用のドラムセットをプレゼントしてあげると言ってくれました。幸い目標高校には合格しドラムセットをプレゼントしてもらいました。嬉しくて寝るときはドラムもので結構気を使いました。幸いご近所の理解もあって(我慢してくれたと思います)熱心に練習できたと思います。ただ志望校に合格したのにサッカー部やボーイスカウト活動、ドラムスの両立が出来ず、落ちこぼれてサッカー部は秋に泣く泣く退部せざるを得なくなりました。こうなると私は開き直ってしまい、午前中は梅田~本町~心斎橋と楽器屋巡りをして昼食時に登校するといった「雨の御堂筋」まがいの大名出勤をする様になりました。クラスメートに軽く見られていてもドラムセットで演奏すると一目置かれるのでバンド活動に精を出すようになりました。3年生の文化祭で最後の演奏をして大学までは一応バンド活動は封印しました。
落ちこぼれの劣等生でしたが、猛烈に追いあげて大学は志望校に行けました。
課題と振り返り
志望校で迷わず軽音楽部に入部しました。ディキシーランドJAZZバンドに入ってよくバンドの仕事をしました。プロの方々に混じって演奏もできて刺激を受けましたが、プロの生活の厳しさを見聞きしていて、私には無理と思いました。
ボーイスカウト活動では子供たちの鼓隊を教えるようになりました。自分が経験した壁の乗り超え方を教える事が出来たのは良かったと思います。
我々若手を応援してやろうとディキシーランドジャズのクラブの後援で、ジャズのメッカアメリカにホームステイなども組み込んで演奏旅行に行きました。「ロサンゼルス」「ニューオリンズ」「シアトル」「サンフランシスコ」のジャズクラブのご協力で音楽交流が出来ました。
社会人になって
社会人になって、その時の友人たちから誘われて社会人バンドに入りました。
「神戸ジャズストリート」「高槻ジャズストリート」などに出演する一方、「ニューサントリーファイブ」(1970年開店)に定期的に出演できるようになりました。
オーストラリアの「ニューキャッスル・ジャズ・フェスティバル」は楽しい思い出です。おかげで友人も出来ました。
今は病気療養中でもあり免疫力が低下しているので音楽活動は出来ていませんが、リハビリに励み、音楽活動に復帰したいと強く願っています。