高校時代

高校時代の思い出

 高校は千里高校だった。山の手の進学校である。中学校から受験した半数が不合格。合格発表で合格を確認して意気揚々と帰宅する時、合格発表を確認しに向かう不合格組とすれ違ったが不合格だと言いそびれたのを覚えている。
 入学式には父も付き添ってくれた。式には「藤本義一」の公演があった。式の後で友人の父と4人で喫茶店で話していて、友人の父が海軍兵学校出と聞いて父が恐縮していたのを思い出す。戦前戦中では、東大や京大並みのエリート校でしかも厳しい教育で知られていたらしい。
 学校は服装は自由だったのでむしろとまどった。3年生の女子がマドンナさながらのピンクの服装で日傘をさしてきたのには驚いた。

 教室に入って50音順に座席をわりあてられる
  F君、M君、Y君、たちとサッカー部に入った。
クラブでは初心者は私くらいでレベルのちがいに悩むことなる。それでも練習後校庭のトンボかけをして、M君と仰向けになり夕空を仰ぎ見た感動は忘れられない。
 クラブでは、試合で貢献できないがオフサイドを判定する線審とかは得意であった。
守備位置はバック。走り込みはきつくてくたくたになった。

高校時代の勉強

 勉強は、今思えばちゃんと予習をしておいたら良かったと思う。ほとんど赤点で卒業ぎりぎりの有様だった。悪いことに合格したお祝いに買ってもらったドラムセットに夢中になり音楽にかかりきりの生活になり、勉強など全然しない。図書室で「反抗の精神」などを読んで遅かりし反抗期となり、「北杜夫」の「どくとるマンボウ青春記」を読んで怠慢な青春にあこがれたのが良くなった。もっとも同氏は東北大学の医学部を卒業して医師になたから、相当晩学に励んだはずである。私は卒業に最低必要なれを出席日数と合格単位さえ有れば良しとしてそれを実行した。まず苦手な水泳は出席せず、嫌いな科目も休んだ。例えばこうである。自宅を出てまず「梅田」に向かう。そこから「本町」→「心斎橋」と移動する。このあたりで「三木楽器」「YAMAHA」など大型店が開店するので、じっくりと高級なドラムセットを吟味してまわる。高校生では手を出しにくい値段である。教則本を読んなり買ったりしてパンフレット片手に「なんば」から登校する。
 まるで「雨の御堂筋」そのまんまである。

担任と母を交えた保護者会議ではあまりの成績の悪さに、サッカー部をやめるように諭される。留年がよいか、サッカー部をやめるか二者選択を迫られる。なんか腹が立って留年るると言ってやったら、意地になってサッカー部をやめるように説得にかかられた。2:1で2時間かけて説得されてようようサッカー部をやめることになった。今となって不謹慎であるが、もし1年から卒業まで留年したら、6倍もの同級生ができるわけで、面白い展開になっていたのではないだろうか?3浪に相当する犠牲にはなるが、国立の一期校にでも入学すればチャラになるズルい発想である。神経が図太くなければやれないが。
 サッカー部の部長に辞めたい旨をつたえたら、引き留めてくれた。これはとても嬉しかった。それから顧問の先生に退部の相談にいったら、「あ、そう、それならサイナラ!」冷たく、あっさり退部となった。なんかすごく悔しかった。

 やめる前に、対外試合があり出場した時、2:1ではさまれた時うまく相手二人を振り回せたので、いつの間にこんなにうまくなったのかと驚いた。

 M君は仲良しで、成績も優秀である。内申書では下町の私は9、彼は8なのだが習熟度がまったく違う上に粘り強い学習をする。結局は大阪大学工学部に現役合格した。Panasonic(松下電器)に就職
 F君も大阪大学工学部。のちにダイキンへ就職。
 Y君は大阪府立大学、工学部で後に同大学教授になる。

バンド活動と大学受験

しかしながら、サッカー部を退部したら、寂しく「帰宅部」である。
虚しくて、駅で飛び込み自殺をしようかと思い詰めたほどである。

放課後にトランプで現役の運動部と合流してトランプをして一緒に帰宅するようになった。
この(M君をはじめとする)連中はなかなかの付き合い上手でとっても楽しい思い出になった。

実はボースカウト活動も続けており、毎週ハイキングやキャンプ、そのための準備集会を柴島の本部で行っており、10名の隊員は息もあってとても楽しい。これでは勉強するゆとりなどないものである。ボーイスカウトには鼓隊があり年小隊への指導もあった。

ドラムに打ち込むようになったのはボーイスカウトの影響が大きい。
先輩の演奏は格好良くてとてもあこがれた。

じきに転校してきたA君(ギター)とふたりでバンドを始めた。練習場所は最初私の自宅の2階であった。近所には相当迷惑をかけたと思う。

彼とはすごく気が合って彼の家にいっては私の知らない良い曲をたくさん紹介してくれた。
そのうち近くのジャズ喫茶に入り浸るようになりそこで出演されていた、ボーイスカウトにあこがれてバンド名をジャズ喫茶と同じ「BlueCity」にして学園祭に出演するたま二人で「フォークソング部」に入部した。練習は学校になるので、友人たちと6時くらいにドラムセットを担いで電車学校まで運んだ。部室に楽器を置いて放課後に教室で練習する。今思い出すと良くやったと思う。
 
学業はだめだしサッカー部は退部するわで、唯一バンド活動だけが心のささえになった。たまにフォークソング部のコンサートでバックバンドで演奏る程度である。友人たちもそれだけは褒めてくれた。

 どうしようもない閉塞感のなか、バンド活動を手掛かりにしてなんとか精神的に足がかり出来たと思う。なんとか授業についていこうとするが、どうしてもついていけない。数学の授業で微分積分を習っていたらやはりついていけない。腹が立ってノートをぐしゃぐしゃに破って通路に捨ててしまった。驚いた女性教師は次の授業から少し進むたびに私が理解しているか確認する。そのたびに同級の男女からクスクス笑われる。恐縮する私が面白いのである。予習復習を多少しても追いつかない。数学以外も英語、物理化学、中学校とは異次元のレベルに感じた。
  
 千里高校は3年になると進学を目指し文系コースと理系コースに分かれる。2年末に相当悩んだ。答えは比較的科目が少ない受験科目の関西大学。それも、実社会で役立つ「政治経済」「英語」「現代国語」の3科目だけである。

 赤本(過去受験問題)片手にそこから「試験に出る英単語」などからカード式の暗記を始める。この作戦は正解であった。英語はなんとか人並みまで成績をもっていく。「現代国語」は得意なのと「関西大学」の場合漢字の配点がおおきく、中学校、高校の漢字が問題に出る。「政治経済」3年だけだが好きな科目だし、英語200点、国語200点、政治経済100点の配点になる。集中的に勉強して「関西大学・経済学部」を現役合格できた。英語170点、国語160点、政治経済96点であった。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪