淡路島の思い出

母の出身地

 母の出身は淡路島である。洲本と福良の中間にある市という街も料理旅館の長女として生まれた。旅館の女将が私の祖母である。とても保守的な土地柄で辟易して都会に出てきたかったらしい。旅館は中規模だが、町の団体や消防団などがよく宴会をしていたらしい。
 
 隣は高等女学校で戦時中は旅館を学生宿舎として貸し出していた。だから母の友人はとても多い。幸い空襲にもあわず、戦時中はのんびりしたものであった。

 その代わり母は女将をしている祖母の次の担い手としてよく働いた。

旅館の手伝い

 昭和36年に私が生まれる。5歳くらいからの思い出がある。男2人。女2人の兄弟で、母は長女として店の手伝いをしながら弟や妹の面倒をみてきた。だから、兄弟は私に途ても優しかった。長男は早稲田大学にいっており、あまり会わなかった。

 旅館は和風のスタイルで日本庭園や池があり、鯉を見に行っては、頭からよく池にハマったものである。幸い大事にはならなかったが、みんなキモを冷やしたのではないか?のんびりしたものである。

 2つある池の一方にはガラス敷きのモダンな橋であった。割れないか不思議な気がした。

宴会ともなれば私もお手伝いに駆り出された

廊下の拭き掃除
 旅館の廊下は相当な長さがあり、女中さんとねじり鉢巻きで拭き掃除をした。
自宅とは比べ物にならぬ距離である。無我夢中で拭き掃除をした。

下足番
 宴会のお客様の多い時は下足番である。番号札を2つ用意し一つはお客様にもう一つはお客さの靴に置く。かえりはそれらを照合しお客様に靴をお返しする。

宴会の後始末
 時間におわれないのでのんびり片付けができた。酒飲みは料理のデザートを残すのでそれを頂戴するのが楽しみであった。
お手伝い以外は暇を持て余した。当時、淡路島にも鉄道があり友人たちとそこまで行って、レールに置き石をしたことがある。置き石に電車が乗り上げて乗務員が飛び出していたのを覚えている。あれは夢だったのかもしれないが、現実で捕まっていたなら、ものすごい倍賞をしなければならなかっただろう。洲本から福良まで一時間ほどで連絡していた、淡路交通鉄道もバスに乗客を奪われ廃止となった。
 
 駅前通りの模型屋でゼロ戦とかのプラモデルを買ってきて黙々と組み立てたりすることが多かった。
 
 叔母や叔父や隣の親戚の兄さんや姉さんがたまに遊んでくれるので、楽しみにしていた。4キロほど離れたダムなどどうやって行ったのか覚えていないが、桜のシーズンなどそばらしい眺めであった。大正に造られたレトロなダムで趣がとてもある。
 帰りは社家の八幡神社にお参りして帰る。

 田舎だからカブトムシとか獲れるとおもうが田園の真っ只中だったせいか、旅館のまわりではまったくとれなかった。その代わりに用水路に蛙、蛇などはいくらでもいた。気持ち悪いから相手にはしないでいた。あとはセミがいくらでもいた。

 残飯を狙って野良猫がうろついており部屋に閉じ込めたら粗相をされてにおいが残り辟易した。

小学生時代

 小学校高学年にもなれば友人と近くの三原川まで遊びに行った。ドジョウが口を出して呼吸をしている。捨てられていたハリスのついた釣り針で呼吸を合わしてひっかけてやると面白いように釣れた。バケツにいれて意気揚々と帰り道、後ろから来た肥え担ぎのオヤジが肥えを地面に降ろした反動で、我々に頭から肥がかかってしまった。臭いはアンモニアで沁みるわで友人は泣き出す。我々はすぐに着替えをもって旅館に戻り風呂場に一番近い入口にドジョウをおいて浴場で体を十分洗った。肥しの匂いがなかなか取れない。やっと洗い終わって着替えてもとあったドジョウのバケツの場所に戻ると」バケツがない。

 母親にドジョウの行方を聴いたらあっさりと「残酷煮」にして食べたとのたまう。
我々二人はまた泣かされた。「残酷煮」とは豆腐と魚を一緒に煮ると冷たい豆腐の中に魚が逃げこんでそのまま煮魚になる調理法である。母がドジョウ好きということも初めて知った。

 
 淡路島はハモが有名だが、これだけは母が台所からこっそりくすねて父や我々に分けてくれた。祖母も知って知らぬふりをあいていてくれたので、随分良い思いをしたものである。

 正月は諭鶴羽山に登った。ダムかた登った。山頂には神社があり焼きもちを頂ける。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪