ジャズの発生
「ジャズ」はアメリカ南部の「ニューオリンズ」の町から全世界に広まった20世紀を彩るアメリカが世界に誇れる素晴らしい財産の一つでも有ります。この全ての「ジャズ」の源となる「ディキシーランドジャズ」は今でも全世界で多くの人々に愛されていますが、その起源を遡りますとこのアメリカ南部の「ニューオリンズ⇒以下N.O」の町での出来事が多大である事は否定できません。
ジャズの歴史
ニューオリンズ⇒N.Oの歴史 (1300~1700年代)
一説では12世紀(1300年代)には既に北欧のバイキングがやって来ていた痕跡が見られ、更に世間一般に知られているコロンブスの新大陸発見(15世紀後半1492年)の半世紀以前には既に中国人が入って来て一つの文化を形成していたとも言われています。
その証拠の一つに「万里の長城」と同じ作りの建造物が見つかっています。
15世紀にヨーロッパ諸国で起きた「世界植民地奪取時代」にこの地は当時最大の艦隊を有していたスペインが一番乗りをし、それから
二百年程はスペインの領地となっていました。
異国ムードが漂うN.Oの町
時代は移り17世紀、1600年代になるとこの地をフランスが統治する様になり多くのフランス人が移り住みフランス文化の香りのする美しい街へと発展して行きます。
N,Oの町は今でもここかしこ、町の一角にスペイン情緒の街並み、フランス情緒の町並みと異国ムードが漂うのはその時代の名残なのです。
奴隷貿易
16世紀になって1712年、この地の主要産業になっていた砂糖きび畑や綿花畑での利益追求のみで人としての心等全くない、ただ目先で起こっている大問題、労働力確保のために傲慢で身勝手な白人の考え方から、当時の白人支配の世界では堂々と「暗黒大陸」と称されていたアフリカから黒人を人としてではなく只白人の好都合の労働力としての奴隷を連れてくる制度
⇒「奴隷制度⇔奴隷貿易」が始まり、
この町の人口は突然膨れ上がり1718年からそれまで400人だった町がわずか4年程で一気に8000人を超す程に一変し、この町は黒人労働者の町と化したのです。
結婚条件付き異国移送
ここでやっか居な一つの問題が派生します。
時の白人(スペイン人 フランス人)農場主としては当然しっかりとした労働力確保にと子供ができないだけで無く必然的に狂暴化の恐れが出始め、白人農場主たちにとってはその恐怖感を募らせる日々が続きます。と同時に各所で黒人奴隷による暴動等の社会もんだいが随所で発生しました。これに慌てたフランス政府は問題解決にと、急遽、フランス国内の刑務所に服役している女刑囚や港の売春婦を集めてN,Oに送り込み、無理やり黒人奴隷と結婚させると言う破天荒な政策を取り入れこの悩みを解決しようした。
「奴隷制度⇔奴隷貿易」や「囚人女性の結婚条件つき異国移送」等の
こんな話、今では無茶苦茶でとても信じられない話ですが、
当時の白人社会、そしてあおの時代のフランス人気質は全てがおおらかだったようでこれ等の政策はむしろ人々におおいに歓迎されていたようです。
クレオール人
こうして黒人男性奴隷とフランス等から半ば強制的に送らせて来た白人女性の結婚、更に既にこの地にいたヨーロッパ系の白人女性と黒人奴隷の男性、更にしばらく後になってアフリカから連れてこられた黒人女性と農場主や農業関係者などの白人女性との間に生まれた混血の子供たちは皆「クレオール人」と呼ばれ、その後の「ジャズの誕生とその発展」に大きな足跡を残すことになります。
N,Oの歴史(1700~1800年代)黒人の音楽
当時のN,Oの町にはスペインの音楽や、そのスペイン音楽の源となるエジプトのジプシー音楽、カドリールヤ「ワルツといったフランスからの音楽が広まっていましたが、アフリカから船底に詰め込まれ連れてこられ一切自由の無い黒人奴隷達にとっては実に過酷な黒人社会と音楽の禁止と言う弾圧が為されておりましたが、彼等は全ての音楽を彼らなりに変えて楽しんでいたのです。人として認められることなく、教育なども全く受けられない、教会に入る事すら許されない。無論、白人の楽器等には触る事も出来ないし、譜面等は読めない。一切の集団行動団体活動は禁止!こんな彼ら細々と出来た音楽と言うと、手製の打楽器を始めとした質素な楽器を駆使し、己の体を動かしエネルギーを強烈に発散させる(シミー SIMMY)ダンスや、体の底から発する呻き声(シャウト SHOUT)、叫び(ブルース BLUES)等の極めて限られたものでした。黒人奴隷達に課せられた過酷な条件下ではとても音楽等を楽しむ余裕やゆとり等は一切無かった筈ですが事実は全く逆で彼らのバイタリティーはそんな事でくじける様な甘っちょろい物ではなかったのです。発展しますが、それより一世紀前にアメリカの北と南の境界線を正確にどこにするかが話題になった時期があり
1768年イギリスの天文学者「チャールス・メーソン」と「ジェアーミン・ディクソン」の二人によって計測された北緯39度43分に引いた境界線の測量をしたイギリス人の女性「ジェアーミン・ディクソン」の名を用い「ディクソンランド⇔ディキシーランド」
と呼ぶようになり南部に特別な親しみを抱くようになった問う言う説があります。
フランス貨幣説
ディキシーランドの呼び名の南部地方の最も一般的な通説としては、
N,Oが有るルイジアナ州がフランス統治時代から長期にわたりフランス貨幣が使われていたころ、その最も使用頻度の高かった10フラン紙幣を呼ぶフランス語の(10)⇒ディス
の響きから(DIX―LAND⇒ディキシーランド)と呼ぶようになり南部に特別な親しみと憧れを抱くようになります。