関西大学軽音楽部

大学生時代バンドの思い出

関西大学に奇跡的に現役合格し意気揚々と軽音楽部にドラマーで入部した。1年部員は約80名。初心者から小学校から始めた連中まで千差万別。キャリアが長くても初心者に負けることがある。総合力で競いあうことになる。とにかく自分でバンドを結成するか、バンドに潜り込まないと話にならない。演奏に自信がある人間ほど我が強くてバンドを組みにくい。やりたい音楽ジャンルくらいはともかく、もっと細分化特化すると、喧嘩してしまうのである。演奏力のある先輩のバンドにいれば我慢もするが自分より実力の劣る同期ともなれば仲間割れしてどうにもならない。ビッグバンドならどうかと思うが、多少なんとかなっていたようだが実情はバンドリーダーが相当苦労したようである。
さて、私は運よく当時流行っている「フュージョン」系のバンドを同期と組む事が出来た。アメリカ「クルセイダーズ」のコピーをしていてまずまず気に入っていたのだが、メンバーがディスコ調の音楽を始めたため私はバンドから足が離れていった。
そんな時、ドラマーがいなくて困っているので臨時で加入してくれといわれて、「ハード・ロック」のバンドに助っ人で入った。「ジミー・ヘンドリクス」ばりばりもリーダーがギタリスト。別に強力なボーカル。おとなしいベースギター。今思えば良いバンドだったと思う。

個性あるバンドメンバー

先輩のフュージョン・バンドは格好良かった。7回生と3回生の凄腕ドラマーがいて、見学していたら7回生の先輩がスネアドラム(小太鼓)を1万円で譲ってくれた。これは有難かった。今でも主力兵器として使っている。
クラブ棟の廊下が個人練習場所である。基礎的な練習方法を、プロの先生に習っている先輩や同期に教わり、練習する。先輩の指の付け根はタコになり内出血で真っ黒である。
授業の合間に練習ばかりしていた。プロになる気はないが音楽に対しては本気である。
夕方まで練習して、練習室(スタジオ)の横にあるベランダで夜景を眺めていると、粋なトランペットの旋律が流れてくる。これはいいとスタジオの窓から演奏を見ていた。するとトランペット(コルネット)の先輩が声をかけてくれて、そのままバンドに入れてもらえた。
もっとも古いスタイルのJAZZスタイルをテーマとしているので歌心を大事にしている。
同期は4人いたが1年後には一人トランペットだけになった。古いスタイルだから人気がないのである。
しばらくしたら近所に住む京都外国語大学の先輩がクラリネットで混じっていることが分かった。

バンド発表

夏季合宿で三重県に行くことになった。練習で同期のトランペットが先輩に随分しごかれ叱られている。私はベースの先輩からリズムの「のり」について指導をうけた。どうも抽象的に思えるのだが、おかしい時点で「そこ、重たい」「だんだん軽い、前乗り」とか指導されるのだがどうもしっくりこない。実は大切なことでいまだに意識しながら演奏している。
そこそこ演奏できるようになって、ある日、学外で演奏の仕事がある。といわれて、いよいよライブハウスでライトアップされながら演奏できるのかとわくわくしつつその日を心待ちにしていた。
さて、いよいよその日が近づき先輩に仕事の詳細を聴いて驚いた。マルビルの前で紅白のカンカン帽に紅白のハッピを着て演奏するのだと言う。高校の同級生でも通りがかれば恥ずかしくてたまらない。もう、これを機にバンドを辞めようと思った。しかし先輩たちは意気揚々としている。ええい!どうにでもなれ!と仕事をやった。幸い同級生にはあわなかった。かわいい司会の女性を先輩の車で送り返す。ギャラも1万円と結構な額を頂いた。
これ以降、仕事、特に屋外の仕事は美味しいと味を占めた。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪