思い返そう、弱かった時代の阪神の中継ぎピッチャーたちを
今でこそ優勝争いができるまで強くなった阪神タイガースですが、90年代はとにかく弱かった。Aクラス(3位以上)になったのは、亀新フィバー(亀山と新庄)でヤクルトと優勝争いをした2位になった一回だけ。
そのあとはBクラス(4位以下)ばかりで、最下位はなんと6回。
そんなクソ弱かった時代を陰で支えていたのが、中継ぎピッチャーたちでした。
田村、猪俣、弓長、古溝、伊藤、葛西、遠山など。
新庄や藪といったスター選手たちに隠れて、負けても負けても投げ続けてくれた中継ぎピッチャーたち。
現在はホールド(勝ち試合で投げた中継ぎピッチャーに与えられるポイント)という記録もできて、億を超える給料をもらえる選手も珍しくなくなり、試合の後半を支えるピッチャーとして評価もされていますが、当時はまだ中継ぎの評価も低く、給料も安く、それでも毎試合負け試合でも投げ続けた、健気なピッチャーたち。
そんな阪神の90年代を支えた中継ぎピッチャーたちの中から、僕的に特に印象に残る選手たちを紹介したいなと思います。
野村監督の奇策、遠山、葛西、遠山
まず何と言っても90年代阪神の中継ぎピッチャーで、有名なのが遠山、葛西、遠山という奇策に出た、野村監督時代にあった投手リレー。
知らない方に説明しますと、野球は交代で一度マウンドを降りてベンチへ帰った選手は、再登板できません。
しかし野球では左バッターには、左ピッチャー。右バッターには右ピッチャーを登板させた方が、確率的に抑えられるパーセンテージが上がります。
でも、相手打線が左、右、左バッターと続く場合、スリーアウトを確実に取る場合、三人のピッチャーがいることになります。
しかし、そんなに確実に抑えられるピッチャーがたくさんいるのならば、最下位になっていないタイガース。
とくに左キラーだった遠山を、どうしても左バッターに登板させたい。
そんな事情もあり、野村監督が考え出した奇策が、遠山、葛西、遠山のリレーでした。
どうやって遠山を2度投げさせるのか。
ます左ピッチャーである遠山を左バッターに登板させてワンアウト。
そして右バッターの時、右の葛西を登板させるのだが、ここでなんとピッチャーである遠山を一塁に守らせて、まだベンチへ帰らずに、葛西がマウンドに上がり、右を抑えてツーアウト。
そして次の左バッターの時、一塁から遠山をマウンドへ戻し、抑えるというプロではほぼ前例がない投手リレーを、名将野村監督はしたのです。
この特殊な投手リレー、当時弱くて明るい話が少なかった中、話題となり、特に遠山は巨人の松井に強かったこともあり、ファンは大喜びをしました。
忘れられない選手、古溝
そして、僕が一番、暗黒時代タイガースの中で忘れられないのは、なんと古溝投手です。
古溝、覚えている方も少ない、地味な選手ですが、僕にとって実は阪神ファンになるきっかけを作ってくれた選手なのです。
1993年、当時小6だった僕はヒマで、阪神戦をなんとなく見ていました。
その時、登板したのが左ピッチャーの古溝。その時、好投をして『サウスポーの選手ってなんかカッコいいな~。去年は亀新フィバーで盛り上がっていたし、このチーム応援してみようかな~』ぐらいの軽い気持ちでファンになったのです。
その時の僕は、野球の知識が少なく知らなかったのです。阪神が暗黒時代に突入していることを。
応援しても負けて負けて負け続ける。そんなチームを応援し続けるモチベーションになっていたのが、中継ぎピッチャーたちの頑張りでした。
弱いなかでも中継ぎたちは、毎日毎日頑張って投げているじゃないか。このピッチャーたちが、報われる日が来るまで応援しよう!
そんな気持ちで阪神を応援し続けましたが、名前を上げた中継ぎピッチャーたちは、優勝の美酒を味わうことなくユニフォームを脱ぎました。
そんな中継ぎが好きという阪神ファンなので、今は東京オリンピックでも活躍した、サウスポーの岩崎が好きです。
今は岩崎が報われる、阪神が優勝することを祈っている毎日ですが、こんな強い時代だからこそ、逆に暗黒時代の報われなかった中継ぎピッチャーたちを、今でも覚えているぞ、君たちはファンの記憶の中に残ったんだ、そう言ってあげたい気持ちです。
影に埋もれがちな暗黒時代の阪神の中継ぎピッチャーたちよ、永遠なれ!