プロローグ
この文章は私個人の体験のもと、簡単な生い立ちからアルコール依存症と言う病気になった事をつらつらと書き連ねただけのものである。何がどう、誰の参考になるかは分からないが、ある意味、今まで生きてきた事、感じた事をそのまま書いてみた。勿論、私は医者ではないので医学的見地はない。本当にただの体験記と思って読んでいただけたらと思う。 そしてその感想は皆さんにお任せする事とする。
私は東京は浅草で生まれた。まだ保育園に行く前に私の体が弱くて病気がちだったため、祖父が父の仕事を探してきて父の故郷である群馬県に引っ越した。最初は借家住まいだったが、私が11歳の時に土地を購入し、小さいながら一軒家を立てた。私が中学生になる頃までは父のDVや女遊びが激しく、母はずいぶん泣かされた。それでも何とか芋嘔吐が生まれたころには落ち着いた家庭を取り戻し、それからはあ平穏な日々が続いた。高校生になってからはアルバイトをしながら充実した高校生活だったと思う。オートバイにも乗るようになり、したいことはほとんどできたと思う。高校入学時もそうだったが、運よく工業大学にも推薦入学で入る事が出来た。2年生を終える頃、父が仕事で大けがをして手の指を5本失った。私が通っていたのは私立の大学だったので、毎年かかる費用もそれなりに高かった。夏休みと春休みを利用して自動車メーカーで期間アルバイトとして働き、そのお給料で何とかやっていたのだ。もう、その一方が入った時には大学卒業は諦めた。すぐに実家に帰り、それから普通自動車の免許を取りに行って手っ取り早くいい親が務めていた工場に就職した。それから父が定年退職するまでの間は何事も無い様に表面上は取り繕ってきた。しかし、父とはある面で確執があった。もちろん会社では良き上司であり良き先輩であった。その仕事ぶりを見て大変尊敬してはいた。しかしそれ以外の事、例えば地震があればボランティアに行ったりする事など、生活面では大きな隔たりがあった。「ボランティアなんて金持ちが道楽でやる事だ。我々庶民がやる事は偽善者でしかない。」といった具合で生活面での考え方に埋まらない溝が深くなって行った。
私は考えに考えた末、ある結論に達した。やはり父と暮らすのは難しい、と。ちょうど父の定年退職と妹の結婚式が1週間の間にに取り行われた。そこで父を居酒屋に呼んで二人で話をする事にしたのだ。もちろん私の結論は決まっていた。私から父に「もうこれ以上一緒に暮らしていても良い事はない。喧嘩ばかりするのなら、いっそのこと家を出る。」そう話した。父は暫く黙っていたが、「お前がそうしたいなら好きにしろ。その代わり二度と家の玄関を跨ぐなよ。」そう一言だけ言って酒を飲んでいた。帰りの運転代行車で家に着くまで二人とも無言だった。家に帰り自室に戻っって必要最低限の荷物を用意し、その日は早くに眠りについた。そして翌朝涙を流しながら佇む母に「元気でね。」と一言残して駅へと向かった。まさかそれが母との今生の別れになるとは知る由もなかった。上毛線の馬庭駅から高崎駅まで行き、そこでJR高崎線に乗り換えて東京は上野駅に向かった。今思えば父がやはり若かった時に東京で丁稚奉公に入った時も同じだった。もっともその頃は電車ではなく、蒸気機関車だったそうだが。
私、アルコール依存症なんだそうです。~大阪にたどり着いて~
それから長い間、電車で旅をした。今まで電車で旅をした事なんか無かったので、毎日が新鮮な感覚だった。上野から北上して行き、青森県まで行った。北海道へ行こうか迷ったが、もう冬になっっていたのでそのまま日本海側を南下していった。特に計画があったわけでもないので青春18きっぷを上手に使いながら、あちこちの名所にも立ち寄った。そこでその土地の美味しそうなものを居酒屋で見つけてはそれを当てに酒を飲んだ。宿はなるべくお金をかけないようにカプセルホテルや時には駅の待合室で過ごしたりもした。山口県まで辿り着いた時も九州へ行こうか迷ったが、地図を見たら路線が複雑なので止めにしてそのまま山陽線へと乗り換えて瀬戸内海を見ながら旅路を進め姫路に着いた。写真でしか見たことのない姫路城は立派なお城で、その城下町でもおいしいものをいただいてお酒を飲んだ。中でも生姜醤油で食べるおでんはなかなか絶品だったのをよく覚えている。その頃になると工業地帯がちらほら見えだしてきて、何となくそろそろ住むところを探さないといけないなと思い出した。そのまま神戸で一旦降りて街を散策したが、そこに住む気にはならなかった。そのまままた電車に乗って程なく大阪に着いた。当時の梅田はそんなにきれいな街ではなかったが、東京とはまた違った都会だと思い、少し散策してみることにした。例によってカプセルホテルの安い所を見つけ、定宿とすることにした。近所の居酒屋で食事をしたら美味しくて安いのでびっくりした。何となくそれでこの街にしようと思った。それに居酒屋で飲んでいると知らないおじさんたちがやたらと声を掛けてくれた。ここはいい街かもしれないと思い、就職活動を始めた。当時は電話帳のごとく分厚い求人誌が100円で売っていたのでそれを買い込み、カプセルホテルで仕事を物色していた。そこで気が付いたのは、どうやら町の中心部は商売の町であるようで、私が探していた工場の仕事はあまりなかった。手持ちのこともあるのでとりあえずパチンコ店の面接を受けてみた。そうしたらそのまま採用となり、しかも正社員だという。ただ、寮があったのと賄い付きでそこそこのお給料だったので深くは考えずにそのパチンコ店に就職した。少しお金を貯めてそれから本格的に仕事を探せばよいという、腰掛のつもりでの入社だった。そのまま指定された支店へ行き、店長と事務長に挨拶をして制服に着替え、パチンコ店の社員となった。腰掛のつもりだったのだが、毎日が流れていき、いつの間にか転勤まで経験して次長にまでなっていた。待遇はどんどん良くなっていくが、責任も重くのしかかり、当時の出張先だった石川県小松支店の店長とそりが合わず、もうその頃にはパチンコ店の仕事も辟易としていたところだったので辞表を出して会社を辞めた。そしてその足で大阪まで戻り、またカプセルホテル暮らしとなった。それからまた就職活動が始まったのだが、そのパチンコ店に約4年間勤めていたので私も既に年齢が35歳を過ぎていた。もう工場で働くにはぎりぎりの年齢だった。そのときは少しより道が長くなったことを、少しだけ後悔した。しかし、もう後の祭りだった。