ボーイスカウトのサブリーダー時代

ボーイスカウト

 私がボーイスカウト活動をしていた時は小学校3~5年生まではカブスカウト。小学校6年生から中学校3年生までがボーイスカウト。高校生はシニアスカウトとして活動していた。
カブスカウトは40人程度の隊で行動し、親もついてきていた。簡単なハイキングやカレーライス程度の飯盒炊飯が主で、泊りの場合も宿舎(舎営)であった。
ボーイスカウトになると難易度が一気に上がる。まず6~8人程度の班に分かれ、経験豊かな年長者から班長、次長と班のリーダーが任命され、上意下達の組織が出来上がっている。活動は総勢30~40人程度の隊を4班程度に分割して行う。隊は、成人の隊長・副長・副長補のリーダーが指導する。班単位で日中のハイキング行うことが出来る。事前に班会議をして詳しい計画書をリーダーに提出する。ハイキングには必ず課題を作って、終了後、班長・次長で作った報告書を提出する。制服の左袖に、班長は二本、次長は一本の緑の線が刺繍された腕章をつけるので、グリーンバーと呼ばれる。グリーンバーには中学校3年生、2年生が多いが、高校受験のために私が3年生は活動が難しいと団長(コミッショナー)に交渉したため我々の年次から、活動を自粛しても良いという事になった。

初めてのキャンプ

 初めてキャンプ(野営)に行ったのは小学校6年生の春である。裏六甲の十八丁河原でキャンプ初体験でワクワクしていった。我々「ふくろう班」は、中学校3年生のM班長、中学校2年生のW次長、中学校1年生のSN君、我々小学校6年生(私、S君、O君)の6名である。作業の為に制服を脱ぐ最初にトイレとゴミ穴のために1メートル弱の穴を掘らされたのには驚いた。深く掘るのは地表に排泄物やゴミが出てこなくして自然分解させる目的のためである。便所は目隠しの為にまわりをポンチョ(ビニール製の雨具)で覆い、用を足すたびに土で埋める。「来た時よりも美しく」のモットーのもとゴミなどを捨てて帰るなどは許されない。
穴掘りが終わるやいなや、今度はテントサイトの整地である。自然な山の中、水平なサイト地などほとんどなく、落石の無い安全な比較的平らな土地を見つけてそこを水平にスコップでならす。テントを張る前に雨水を排水する溝を四方に掘る。その後はカマドの為の石を探して集める。一方で他の小学校6年生メンバーは焚き付けやテーブルのため適当な木を集める。生木を取る事は自然破壊になるので、枯れ木のみである。細い木の枝などではなく強度のある太目の木を要求される。グリーンバーやSN君たちは料理の材量を包丁で切り終わっている。そしてカマドでは昼食のために早く薪を持って来いとせっつかれる。カマドに火がついて、鍋や飯盒をおいて更に薪を持ってこいと言われたが間に合わない。赤い色をした細い枝をSN君に手渡すと「お前、これ漆(ウルシ)やないか!かぶれてしまうぞ1」と怒鳴られてキョトンとしてしまった。知らぬが仏でエライことになるところであった。M班長とW次長はテントを張っている。このテントもロープの張り方がいい加減であったら夜中に見回りに来る隊長が、ロープを引き抜いてテントを倒してしまう。
何を食べたのか覚えていないが、バタバタと昼食を掻きこみ次の課題に移る。多くは食卓やトイレ、食器の乾燥台、サイトの整備などでゆっくり休ませてくれない。あこがれていたキャンプがこんなにしんどいとは小学校6年生の我々3人は呆れてしまった。私が中学二年生になって次長(グリーンバー)になったとき、リーダーから初年隊員を遊ばせるな、常に仕事をさせるようにと指導された。そう、M班長やW次長はこの指示に従い我々をしごいてしたのだ。だから、キャンプはゆっくりと楽しむものではなく、訓練とわりきらないといけない。ときどきアクシデントやキャンプファイヤーなどで笑い転げることはあるが、基本ボーイスカウト活動は訓練なのだと納得した。
夕ご飯はハンバーグであった。暗くなった食卓を囲み、舌鼓を打っていると隊長が視察にやってきた。「どれ、どんなハンバーグか見せてみろ・」と言うのでM班長が隊長にハンバーグが乗った」食器を渡す。隊長はナイフでハンバーグを切って「こんなん食ってたら虫が湧くぞ。」と言って懐中電灯で切り口を我々に見せる。周りは焼けているが中央部には火が通っておらず、赤い生のままであった。それにもかかわらず隊長が立ち去ると我々はハンバーグを全部食べ切ってしまった。幸いお腹の具合は悪くならなかった。
翌朝、飲料用に川の水を沸騰させて以降の飲料用に紅茶を作り出した。川の水はお腹を壊すので生で飲んではいけない。必ず煮沸消毒してから飲むようにと厳しく指導されていた。お腹を壊すので生水は飲むな、いう鉄則は子供ながら納得できた。
昼食を食べつつM班長が長い牧の先に、小麦粉や卵で練った生地を巻き付けて、デザートとしてパンを焼いてくれた。これは嬉しかった。ボーイスカウトでは夜のキャンプファイヤーの出し物として、スタンツ(即興劇)や歌の班別競争をする。それらの打ち合わせや練習をサイト地や工作物の整備時間の合間をみて行う。夕食を取り、夕闇が深くなるころ全員集まってキャンプファイヤーが始まる。厳かなリーダーの進行のもと、各班がキャンプソングやスタンツを披露してゆく。傑作なのは「キャット班」の同年次のH君がスタンツの合間に見せた、ドリフターズの「8時だよ全員集合」で「加藤 茶」さんが踊って見せる「ちょっとだけよ・・」という踊りである。「タブー」というバックミュージックにあわせて、なまめかしく踊るH君に全員が大爆笑。以降、キャンプファイヤーの度に「キキャンプファイヤーやカマドの火の後始末は徹底していた。鎮火したようでも薪の中央部いはまだ火が残っているので、薪を折ってでも残り火を探し出して消してしまわなければならない。もしリーダーたちの夜間点検でカマドから残り火が見つかったりしたら、大目玉をくらう。
朝礼は制服を着て国旗と隊旗の掲揚から始まる。また全員の健康状態を点検するために、体調に異常が無いかと質問された後、舌を出して点検される。長期の野営の時など、ずっと便秘だった一年上のN君が、隊長に藪の中に連れて行かれた。隊長の手には合成洗剤を水に薄めた容器がある。しばらくしたら藪の中からN君の絶叫が聞こえてきた。そう、隊長に即製の浣腸をされたのだ。荒っぽいこの事件を見て、我々がキチンとトイレで大便をする様になったのは言うまでもない。
 今のキャンプ場では、炊事場、カマド、食卓、トイレ、シャワー、立て終えたテントまで至れり尽くせりの整備がされているが、当時のボーイスカウトのキャンプはサバイバル、パイオニア精神そのもの、自然の山の中にキャンプ場を整地、整備して行う野趣のあるキャンプでこれが訓練、教育になっていたと思う。
 キャンプ場(十八丁)からバスで宝塚に向かうのであるが、すでにバスは混んでいて、そこにリュックサックを担いだ我々が乗り込むのである。乗れないでもたもたしていたら、有馬から乗ってきた乗客が「おい、運転手!俺らは荷物と違うぞ!いい加減にしろ!」と罵声をあげる。仕方が無いので全員ではなく一部だけバスに乗車し、残りは一時間後のバスに乗ることになった。

キャンプの帰り

 阪急電車で宝塚から崇禅寺まで帰るのだが、ボーイスカウトたるもの、座る事は許されない。崇禅寺駅から柴島の本部に一列に歩いていく。車の邪魔にならぬよう反対車線に先頭を歩くリーダーの手信号一つで全員が一斉にザっと移動する。その統制が取れた隊列の動きに我ながら惚れ惚れしてしまった。訓練とは見事なものである。反抗期だからいう事を聞かない隊員がいてもおかしくないのだが、そんな勝手を言っていたら、食事の時間に準備が出来ずメシ抜きになってしまう。また少し年長の班長・次長のいう事は聞くものである。
 キャンプから帰ってからは、炭で汚れた飯盒や鍋を自宅に持ち帰り洗って本部に返す。この炭を落とすのが大変で、なかなか汚れが落ちない上に、リーダーの点検があって、不十分だとまた自宅まで持ち帰って洗ってこなければならない。これも訓練だと割り切るしかないのだ。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪