父から聞いた大阪空襲

父の話

 父は昭和二年生まれである。1944年くらいから1945年の終戦前までアメリカ軍による空襲が大阪に行われた。父は小型の戦闘機による機銃掃射が一番怖かったと言った。戦闘機もパイロットの顔が見え、面と向かって老若男女かまわず動くものに機銃掃射で射殺をはかってくる。遮蔽物に隠れてやり過ごしても、また旋回して執拗に機銃掃射を加えてくる。ある日、八尾空港に向かって墜落する小型機を見て万歳を叫んでいたら、墜落したのではなく急降下をしただけであった。そのまま機銃掃射をしながら父たちのいている地域に向かってやって来た。ほうほうの体で防空壕に逃げ込んで助かった。」
 また、日の丸をつけた戦闘機が飛んできたので喜んで父の友人が手を振っていたら、機銃掃射を受けて死んでしまった。日本人を騙して、殺すために日の丸をつけていたのだと私に言っていた。後々私が戦記物を読んでいたら、その戦闘機はイギリスの空母から空襲に来た艦載機で、日の丸によく似た蛇の目のようなマークを付けていたために、父たちは見誤ったようだ。

忘れられぬ光景

 ある日、電車で移動中、いきなり戦闘機の機銃掃射を受けた。車内は凄惨たるありさまで、受傷した友人たちを皆で病院に運び込む。傷の痛みにのたうちたまる友人たちを、医師が傷を診て、助かりそうな負傷者と、助かりそうでない負傷者を、冷徹に分けていく。助かりそうでない友人たちは母親を呼びながら息をひきとってゆく。その酷い光景が忘れられないと父は言っていた。

B29

 B29の爆撃はパイロットと顔を合わせることがないが、爆弾の威力は物凄いものであったようだ。防空壕の奥に避難していると、友人が入り口近くで「怖くないぞ」と虚勢を張っていた。ところが、近くで爆弾が破裂したら防空壕に飛び込んできて奥にいた父のそばで震え上がっていたらしい。
 空襲が済んでもなかなか祖父が帰宅しないので、心配した父が長柄橋の河川敷に横たわる多数の遺体を確認しに行った。一体一体遺体の顔が祖父ではないかと確認するが、見当たらない。あきらめて帰宅したら翌朝祖父が無傷で帰ってきた。
 B29には高射砲を撃っていたが、まったく当たらない。小型の飛行機は、空母からはF6F「ヘルキャット」戦闘機、F4U「コルセア」戦闘機、「アベンジャー」攻撃機。硫黄島や沖縄からP51「ムスタング」戦闘機などが飛来して、ほとんど制空権の無くなった大阪を我が物顔で攻撃する。
 あのような戦争がもう二度と日本で起こらないよう、切に願うものである。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪