大隅神社

氏神様

 私の家の近所で氏神様である。昔はお祭りで綿菓子屋や金魚すくいの店が沢山出ていて華やかだった。行けば必ず友達と会うのでますます楽しかった。
 大海神社に行く道中の大道町の入り組んだと細道に紅梅稲荷神社(紅梅稲荷宮)がある。場所は少しわかり辛い。源平合戦に敗れた平家の落ち武者は各地に離散し、ここ三宝寺地区でも農民としてひっそり暮らしていた。しかし田畑を開拓する為に老松や古木を伐採したことから、不審火や疫病の異変が生じた。これを鎮めるために1561年、紅梅稲荷と呼ばれた稲荷神社が創建された。かつては大桐3丁目の別地で、お祭りもあって我が家の前までお神輿が来ていた。かつて、大和郡山の源九郎稲荷と並んで近畿の二大稲荷とまで言われ信仰を集めたらしい。伏見稲荷は二大稲荷とは別格なのかもしれない。今は紅梅稲荷神社は大隅神社に合祀されて社だけが残っている。
 大隅神社は大隅宮(おおすみのみや)がもとである。「日本書紀」の応神天皇の条に「大隅宮は、今の大隅、大同、大道南にかけての一帯にあったと思われる。「難波上古図説」(なにわじょうこずせつ)に「難波江に上古より、三つの島あり。今、江口の南隣に大道村といふ辺り大隅の島なり」とあり、他の古い絵図を見ても該当区域にじゃがいものような形をした大隅島が描かれ、「摂津名所図会大成」(せっつめいしょずえたいせい)にも
 「大隅宮旧趾(きゅうし)西大道村にあり、いにしへは大隅島といひしぞ。応神天皇ここに行宮ありてしばしば行幸、海上を眺望す。」と記されている。「日本書紀」の文章は、応神天皇(在位270~310年)が実家の吉備(岡山)に帰るため海上を西へ向かう妃の兄嫁(えひめ)が乗った船を、大隅宮の高台に上がって見送ったと言うものらしい。これに対して「大日本地名辞書」や「大阪地史」では、地勢からみて大隅宮は上町台地に位置すると否定され、、学者のなかには「オオスミは大澄の字を当てるべきで、水のきれいな所、つまり天神橋南詰東辺、たとえば座間神社御旅所(中央区石町2丁目)付近であろう」とか「大隅宮そのものが実在したのかどうか疑問だ」という人もいる。
 大阪経済大学(大隅2丁目)の辺りに、大隅宮跡(おおすみみやのあと)と伝える小さな建物が残っていた。今の正門の東側である。これは等正寺の西側に移り、明治42年(1909年)大隅神社に合祀され失われてしまった。

大隅神社の起こり

 大隅神社(大道5丁目)は、応神天皇の慰霊のため村人たちが建てた大祖皇神ヤシロ(おおおやのやしろ)が起こりである。住吉淀川が氾濫した時、賀茂神社の神体が漂着し、驚いて合祀し「賀茂のやしろ」と称した事もある。江戸時代の文献に古松老杉繁茂した森厳な境内と記された古社である。応神天皇は神功(じんぐう)天皇の子供で、母子とも伝説的色彩の強い方であるが、当時先進国であった朝鮮から土木技術や鉄器、農・武具の聖作技能を導入し、大和朝廷を発展させた帝である。優秀な朝鮮民族の技師たちを多数招くが、彼らを警護して大和まで同行したのが、鹿児島大隅半島を拠点にしていた武勇の誉れ高き大隅隼人たちであった。その後隼人たちは宮門の警護をしたり故郷へ帰ったりしたが、一部は牧畜の盛んだったこの地域の牧に居住し、地名の起源になったと考えられる。
 大桐1~5丁目辺りには、古代律令制時代以来、典薬寮(てんやくりょう)に所属していた広大な牛牧「味原牧」(あじふのまき)があった。乳牛を飼育したため「乳牛牧」(ちちうしまき、地元ではちちゅうしまき)とも呼ばれる。「延喜式」(えんぎしき)(925年成立の儀式・制度などを定めた史料集)によると牧の人達は牛乳や蘇(チーず)、酪(ヨーグルト)などを製造、毎年4歳から12歳までの母牛7頭と子牛7頭を典薬寮の乳牛院に送る事を義務づけられていた。とてもおいしい味や、なにものにも代えられない楽しみを「醍醐味」というが、これは元来蘇(そ)や酪(らく)のことである。
 文治2年(1186年)頃、後鳥羽天皇が病患に苦しめられた時、教照寺(きょうしょうじ・大桐4丁目)の僧が乳牛牧の牛乳と薬草の汁を混ぜて献上し、合わせて祈祷を行なった。たちまち平癒し帝はたいそう喜ばれて、同寺に山号「乳牛山」を与えたという。いずれにせよ当時乳製品は医薬品であった。大桐5丁目の「せせらぎの遊歩道」に「乳牛牧跡」の碑が立っている。
私の母校である大隅東・大隅西小学校(私が4年生の時に生徒が増えすぎて高学年は大隅東小学校に移り、弟とか低学年は大隅西小学校に居残りになった。のちに全員大隅東に登校するようになる。大隅小学校は大正15年(1926年)改称する以前「乳牛牧尋常小学校」といった。私は創立100期生で大きなフンドウを卒業式で頂いた。

豊里大橋

豊里大橋は昭和45年(1970年)3月、架橋完工している。斜張橋(しゃちょうきょう)といって橋桁を設けず、A字型の塔二基を橋上に立て8本のザイルで吊り上げた、大阪市内でも最も美しいと言われる橋である。
橋ができる以前には、淀川最後になった「平田(へいた)の渡し」があった。延宝4年だったことから、この名がついたといわれる。明治40年(1907)大阪府営に、昭和23年(1947)に大阪市の直営になったが、同45年(1970)まで約300年近く人々の風情ある足として活躍していた。私も平田の渡しに乗って淀川を渡り、母と千林商店街まで買い物に行ったものである。自転車も乗せられるので結構母の後ろに乗って買い物に行った。また当時、「水都祭」(すいとさい)の花火大会があり対岸から花火が打ち上げられた。マンションなどもない時代だから自宅からでも眺望が出来た。豊里3丁目の豊里大橋西側堤防上に「平田の渡し跡」碑がある。
大澤寺(だいたくじ)(大桐1丁目)は、正保3年(1646)僧宗純(そうじゅん)が開基である。宗純は当地の名家沢田家の出身で俗名沢田太郎左衛門、大坂本覚寺の日達上人に帰依して独力で日蓮宗の寺を建立した。沢田家は酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)と親しかったことから大坂冬・夏の両陣では徳川方に味方する。東淀川区域は豊臣方についた者が多かっただけに家康は大喜び、江戸幕府を開くや淀川十六ヶ所の渡船権利を与えて保護し、大変な富豪になる。しかし代々の当主は円満な人格者が多く、地元の面倒もよくみて、福祉活動に力を入れ、誰からも尊敬された。信仰心も厚く、学問・芸術に優れた人も現れ、特に十七代当主沢田義文(よしふみ)は文人で、土佐派の絵画も堪能であった。
他に沢田惣右衛門は円乗寺(えんじょうじ)、沢田久左衛門は観仏寺(かんぶつじ)を創建している。大澤寺(だいたくじ)の墓地には多くの沢田氏一族の墓が現存する。
私の江口から大隅、大桐に住む友人には「西田」「北野」姓が多い。また大桐地区を歩くとお地蔵様によく出会う。大阪市内とはいえ、ひと昔の村を散歩しているような気になる。
 大桐5丁目の「せせらぎの遊歩道」の脇に「逆巻地藏」と呼ばれる1.6メートルはある見事な地藏が祀られている。この辺りは観仏寺の跡である。地藏は弘化3年(1846)大道南の、現在は淀川の河底になった所に建立されている。ここは水流激しく、船頭たちは「逆巻きの難所」(帆を逆に巻かねば転覆する)と名付け、ベテランでも恐ろしがった一帯で、当然難破も多く犠牲者も続出したため、慰霊と船便の安全守護を祈願してこの地藏が造いられた。
 明治31年(1898)淀川改修の頃、観仏寺の住職が緋の衣を着た僧を背負って観仏寺についたところ地藏に変わっていたという夢を見て、これはきっと工事で動かされる逆巻地藏が移りたいと夢告されたのだろうと考え、同寺が引き取り安置した。この時地藏の下から犠牲者の戒名を書いた石が八十ほども出てきたらしい。大正12年(1923)住職の娘さんが地藏が表通りに出たいと訴える夢を見て、さらに現在地に移したらしい。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪