私、アルコール依存症なんだそうです 其の2~派遣社員になって~

派遣社員という道

 やっとの思いで大阪に帰って来た。やはり私には製造業が一番合うと思い、懸命に仕事を探した。けれども中々条件が合わあず、決めかねていた。ハローワークも随分と通った。しかし見つからない。段々と焦りを覚えて来ていた。そしてまた求人誌(その頃には大分薄くなっていたが)を手に入れ手当たり次第に応募してみた。その求人誌の中に派遣社員という文言が出てきた。それまで正社員しか経験がなかったので、派遣社員という事がどういう事なのか良く分からなかった。しかしそこも寮がある、と言うフレーズ惹かれて面接に行ってみた。梅田の確か第3ビルだったと思うが、綺麗なオフィスに通されて履歴書を提出して暫く待たされた。出されたコーヒーを飲んでタバコを吸っていたら営業の方が来て「仕事はあります。ただ、ここからは少し遠い所になります。ここで良ければ直ぐにでもご案内できます。」と言った。手渡された書類を見ると、「YKK AP 四国工場」とある。少し迷ったが、条件等聞いてその場でお願いする事にした。営業は忙しそうに電話でどこかとやり取りを10分ほどしただろうか。戻ってきて「今日お泊りになるところはありますか?。」と尋ねてきたのでまだ決めていない旨を伝えると封筒を差し出し「これで今夜はどこかにお泊りになって、明日の朝9時にここに又来てください。」と言って去って行った。因みに封筒の中には1万円入っていた。。本当はまだ余裕があったのだが、折角頂いたのだから、と思いいつものカプセルホテルに戻りその日は早く寝た。翌朝、少し早めに起きて洗面所でスーツに着替え、身支度を整えて昨日の事務所に行った。着替え等は少しホテルで減らしてあまり大荷物にならない様にしたが、それでも大きめの旅行鞄一つになった。そこで昨日の営業が待っていて「今から行きましょう。行先きは香川県の宇田津市です。駅まで一緒に行って切符を用意します。」と立ち上がって歩き出した。大阪駅から地下鉄御堂筋線でJR新大阪駅まで行き、そこで新幹線の切符を買い、経路の書いてあるペーパーを私に渡した。「私はここまでですので、気を付けて行ってらっしゃい。」と頭を下げて帰っていった。私は程なく来た新幹線に乗り込み、少しばかりの不安と期待の入り混じった気分で車窓を眺めた。1時間位掛かっただろうか。指定のJR児島駅に到着し、そこで瀬戸内海を渡る電車に乗り換えて宇田津駅でホームに降りた。ペーパーに書いてあった改札の出口から外に出ると既にそれと分かる社名の入ったワゴン車が待っていた。そこからワゴン車に乗り込んで先に現場に行くという。見慣れない景色を見ながら辿り着いたのはやはりあの有名な「YKK AP 四国工場」だった。ワゴン車を降りて広い工場の一番手前の棟に入って行き、「ここがあなたの仕事場になります。」と告げ、そこの社員のリーダーと顔合わせをして、それから食堂やらトイレやらと工場の中を案内されてワゴン車に戻った。「それでは寮に案内します。今日はそのままゆっくりして下さい。明日の朝、8時に迎えに来ます。それからこの自転車を使ってください。貸出品ですからそのつもりで使ってくださいね。」と言って自転車と部屋の鍵を渡された。寮は自転車で20分くらいは掛かると思われる、しかし中々の商店街の端っこで見えるところに何でもあった。「では明日。」と言い残しその社員は帰った言った。まだ新築であろうレオパレスと言うアパートで、部屋に入ると布団から生活家電は一通り置いてあった。これなら悪くないなと思いながら、その日は一番近いコンビニでお弁当とビールを買って帰り、阪神戦を見ながら食事を済ませ、風呂に入って寝た。あくる日は迎えに来てくれて、私以外に一緒に入社する5人と一緒に工場へ行った。会議室で安全教育をすると言う。それも3日間だ。やはり大メーカーは違うなと感心しながら講義を受けた。翌日からはそれぞれ自転車で出勤して講義を受け、4日目の朝の朝礼の後、配属先を言い渡された。私は製造1課のエピソードラインと言う所で断熱サッシの受注生産品を加工する部署に配属となった。まだ若いリーダーで今日は見学してくれれば良いとの事で、1日中、皆の作業を見ていた。翌日から少しずつ作業を覚えていく日々が続いた。元々工場で働いていたし、試作の仕事をしていたので仕事を覚えるにはそんなに時間は掛からなかった。工作機械のプログラミングも出来たので、どんどん仕事の幅が増えて行った。そうなると仕事に行くのが楽しくなる。リーダーやライン長とも少しずつ仲良くなり、楽しい日々が続いた。1年が過ぎたころにはプライベートでお酒を飲みに行く仲になっていた。

突然の転勤、そしてヘッドハンティング

 月日が流れるのは早いもので、それから5年近い月日がたっていた。仕事も一通り任せられるようになり、後から入社してきた同じ派遣会社の後輩の指導をする立場になっていた。そんなある日、派遣会社の偉いさんが休みの日の寮にやって来た。「どうしても必要があって君に転勤して欲しい。今日中に荷物をまとめてくれないか?。段ボールは持って来たからこれの詰めて宅配便で億つて欲しい。新しい寮の住所は辞令書に書いてあるから、とにかく急いでくれ。夕方には荷物を引き取りに業者が来るから。じゃぁ、宜しく!。」そう言って帰って行った。派遣社員が辞令を断るという事は出来ないとは周りからは聞いてはいた。しかし5年近くも働いていたのに、紙切れ1枚で右から左かい!。と憤慨した。とは言え、それも厳然たる事実。仕方なく荷物をまとめて段ボール箱に詰め込み、業者に引き渡した。辞令には愛知県知立市のトヨタ車体富士松工場と書いてあり、寮の住所もそこに書いてあった。後ろ髪を引かれる思いで、翌日派遣会社の偉いさんと部屋を後にし車で駅まで送ってもらい、新幹線の切符を渡されてその地を離れた。向こうに到着すると駅の前に派遣会社の事務所があってそこへ案内された。そちらの社員から「荷物は明日届きます。部屋までお持ちしますから。」と言われ新しい職場へと向かった。ここも大きな工場でびっくりしたが、一緒に入社、あるいは転勤してきた人数の多さにもびっくりした。約100人位は居ただろうか。今度は最初から名前を呼ばれ、前に行くと配属先を申し渡される、という感じだった。そしてその後、各配属先のリーダーに連れられて現場に行った。私は製造3課品質係と言う所だった。主にエスティマとノア、ボクシーと言う兄弟車のボディーを作っているところでの仕事だった。仕事内容は機密に触れる部分があるのでここでは書けないが、また1からやり直しかと気分は沈んだ。それでもそこの社員さん達は皆、親切で丁寧に仕事を教えてくれた。さすが天下のTOYOTAだなぁと感心した。私の板派遣会社は全国規模で経営しているので派遣先はいくらでもあった。それから先、仕事を覚えてやれやれと思っていると「今度はどこそこ」っとまた紙切れ1枚でなんか初夏転勤が続いた。そうなると仕事場でも友人も出来ず、寂しい生活になって行った。寂しさを紛らわすために酒量がどんどん増えて行ったのもこの頃だ。何回目かの転勤で滋賀県のトステム水口工場へ行った時の事だ。そこは今までとは違う交代制の勤務ではなく、日勤のみの工場だった。ここはあまり転勤はないと聞かされていたので少し安心して働いていた。住宅関連のサッシやカーポート、門扉などを製造していた。私は門扉の製造ラインに配属になり、給料は以前に比べれば減ったが何とか仕事を覚えて一人で任されるまでになった。暇なときは他のラインの手伝いに駆り出されたりもしたが、社内での人間関係も出来てきて、それなりに楽しく仕事ができていた。4年が過ぎたころだっただろうか。昼休みに全社員が広場に車内放送で呼び出された。そこの社員に聞いても分からなかった。皆が各課ごとに整列して待っていたところ、普段見ないスーツを着た社員さんが立っていた。皆を見渡すように一望するとマイクをもって話し始めた。「突然で申し訳ありませんが、この工場を上半期いっぱいで閉鎖することになりました。この先の事はそれぞれ所属会社と話し合ってください。正社員の方々は本社の方でまた個別に案内します。」もう、頭が真っ白になった。転勤ならともかく、閉鎖ってどういう事になるんだろう。それは正社員さん達も同じようだった。仕事終わりに私の所属する派遣会社の社員が来て「今はまだ何も決まっていし、どうなるか分からない。閉鎖まで3か月あるからその間にこちらも手を打ってみます。」と言って帰って行った。地元から派遣で入っている人はまだ良い。住む所はあるのだから、仕事を探せば済む。実際その工場の派遣社員の8割方は地元の人たちだった。の頃が私の様に他所から転勤で来ている寮住まいの人達だった。悩みながら1か月半くらいが過ぎた頃だったろうか。幾つか入っている派遣会社の中の1社の営業に「うちに来ないか?。」と誘われた。この際どこでも良かった。しかもよくよく話を自宅で聞くと、新しい開拓先があって、そこの製造ラインを丸々請け負う形だという。しかもそのラインのリーダーをやってほしいとの事だった。私は二つ返事でお受けした。その営業はよく顔を合わせていたので知らない中ではなかった。寮も近くに用意してあるとの事。渡りに船、とばかりに飛びついた。それから新しい工場のラインの進捗とそれまでの現場の移転作業と擦り合わせて、今まで勤めていた派遣会社の話し合いですんなり移籍する事が出来た。トステムの方がすべて方付く前に新しい職場、新しい寮へと移動できた。もちろん今度の工場は新しく工場を建て増しして作った新しいラインだ。そこの会社の社員も含めて新しい製品(シャープ製のTVの部品)の製造となる。ラインの責任者はそこの会社の社員2人(交代勤務なので)だが、早番遅番と派遣社員がいる、その片方の反のリーダーという事になった。もちろん稼働した頃はトラブルの連続で、半年位は大変だった。やっと通常稼働できる頃には社員とも上手くコミュニケーションもとれるようになり、私のそれまでの経験を生かせる仕事もあったので、ライン全体に一体感も生まれた。そうこうしている内に2年の月日が流れた。

そしてまた、その時はやって来た~ライン閉鎖~

 平穏な日々を過ごしながら生産も上手く行き、何もかもが順調だった。いや、はずだった。ところがまた大変なことになる。私たちが働いていたラインの仕事を設備ごと他社に譲渡するという話が持ちあ上がって来た。当然私たちが所属する課の課長は猛反対した。しかし上の考えは変わらなかった。後を購入する会社の社員が仕事に入って来て、私たちが苦労して作り上げたラインの仕事を覚え、設備ごと全部引き取って行った。わずか2か月の間の出来事だった。当然そこの派遣社員は全員が職を失い、私は住む所も失った。リーマンショックも重なり、その工業団地だけでも半年で3千人近い失業者を出した。皆、名の通ったメーカーの工場で、人員整理の名目で職を失った。外国人もかなり多くが失業し、ハローワークは連日満員だった。ハローワークに行っても其の日のうちに順番が回って来ない時の方が多かった。私も2週間、退寮を免除してもらいハローワークに通った。整理券が配られるようになり、やっと順番が回って来た時の事だった。受付の職員が「今は外国人の帰国手続きで手が回らない。あなたは住所が大阪市にある様だから、これを持って大阪に帰りなさい。」と現金3万円が入った封筒を手渡す手帰らされた。少しは蓄えはあったが、その顛末を当時の派遣会社の営業に話した。営業も困っていた。自分の所の社員の行き先を確保できないでいたからだ。困った私は当時、あまり評判の良くない派遣会社に電話をした。そこも事務所は大阪氏なのだが、電車賃も惜しかったからだ。その某派遣会社は1日待ってくれと言ってきた。そのまま夜遅くまでお酒を飲んで気を紛らわせた。結局眠れないまま朝が来た。昼近くになって待ちわびた電話がかかって来た。私の履歴書をFAXで前の日に送っておいたのだが、三重県の名張市にあるトステムに空きを見つけた、との事だった。書類の手続きは現地でという事にしてすぐに現地に向かってっ電車に乗った。本当に首の皮1枚で繋がった、と言う感じだった。それまでの派遣会社の社員に宅配で荷物を送ってもらい、鞄一つで電車に乗って到着したのはもう夜だった。とりあえずという事で寮に入り、翌日工場の方へ新しい派遣会社の社員と行き、同じトステムで4年間働いていたという実績での採用だった。荷物も何とか無事に寮に届き、指定された日まで寮で過ごしながらその時を待った。それから三日後に迎えが来て準備が出来たので今日から行こうとその日は車で工場へ向かった。そして派遣特有のセレモニーをこなし、何とかその日の内に配属が決まった。本当にラッキーとしか思えなかった。作っている製品は少々違うが、加工工程としては同じなのですぐに仕事が出来る様になった。新しい制服にそでを通し、又これで暫くは安泰かなと思った。前の水口工場を閉鎖したときに聞いた閉鎖予定工場の中にそこは入っていなかったからだ。それからは安心して勤務していた。暫くの間、田舎で少し不便な所はあるが、慣れた手つきで仕事をしていた。しかし相変わらず、お酒だけは減らなかった。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪