最近の散歩について

朝日を浴びる

朝日を浴びて、1キロ強にある氏神様の大隅神社に参るようにしている。6時くらいに東に向かって歩く。朝日が眩しいが、それによって「セロトニン」というホルモンが分泌される。「セロトニン」は心と身体を安定させ、幸せを感じやすくさせる働きを持つといわれる。
1、大脳に働きかけて覚醒の常態を調整する。
実は朝起きて頭がすっきりしていく状況はセロトニンによって起こるもので、目覚めが悪くいつまでも頭がボーっとしている人は、セロトニンが不足している可能性がある。
 2,心の領域に働きかけて意欲を促す。
   大脳の内側に大脳辺延滞という、意欲や心のバランスに関わる領域があって、そこにセロトニンが分泌されるとポジティブな気持ちが沸き起こり、逆に分泌されない場合はネガティブな感情になる。
特に、ストレスに対して効果があり、自らの体内で自然に生成されるもので、精神安定剤とよく似た分子構造をしている。また、男性は女性に比べて約52%脳内セロトニンを生成する能力が高く、セロトニンの分泌は、女性ホルモンとも連動している。セロトニンが不足すると、慢性的ストレスや疲労、イライラ感、向上心の低下、仕事への意欲低下、協調性の欠如、うつ症状、不眠といった症状がみられる。そのため、日照時間が短くなると、日光を浴びる時間が減り、セロトニンの分泌が低下することが考えられる。
 日光を浴びるタイミングとしては、起床直後から30分が効果的である。冬の寒いときは厳しいが、暖かくなってきた最近は楽になってきた。神社のとなりの大隅公園では6時30分から住民が集まってラジオ体操をしている。そのまま通り過ぎようとしたら、「おはようございます。」と女性から挨拶をされて、私もラジオ体操に加わることにした。体操が終わって神社にお参りに鳥居をくぐる。参拝に来ている人や掃除をしておる神主さんと挨拶を交わす。

散歩コース

 大隅神社からコースを変えて帰路につく。まず道中には「逆巻地蔵」がある。昔、淀川は流れがきつく船の事故が起きないよう作られたものである。豊里大橋付近の阪巻村(現在は淀川の川底になった場所)に弘花3年(1846年)に建立された。おかげで船の事故は起きなくなった。明治31年(1898年)の流れを変えることになった。親仏寺の住職が、緋の衣を着た僧を背負って親仏寺に着いたところ、僧が地蔵に変わっていたという夢を見て、きっと工事で動かされる地蔵がここにいたいと夢告されたのだろうと考え、親仏寺が引き取り安置した。この時地蔵の下から犠牲者の戒名を書いた石が、80近くも出てきたそうである。遭難して亡くなった人達の慰霊碑でもある。その後、大正12年(1923)住職の娘が夢で地蔵が表通りに出たいと訴えるのを見て現在の地に安置されている。
 御地蔵さんの向かいにある散髪屋さんは、以前は麻雀屋で私の中学校一年生の同級生の家であった。お父さんとは折り合いが悪く、喧嘩ばかりしていたときく。矢沢永吉の所属していた「キャロル」の大ファンで、彼に無理やり聴かされたのを覚えている。また大の映画好きで、当時流行ったブルース・リーの「燃えよ・ドラゴン」の映画を観に淀川を越えて旭区の千林までいった。また「天地真理」のファンで彼女のコンサートに連れていかれた事がある。コンサートが物凄い音量で行われていたのに度肝を抜かれた。

せせらぎの遊歩道

 散髪屋と逆巻地蔵のあたりから「せせらぎの遊歩道」がある。かつての用水路を小川として再生したもので、良く整備された遊歩道は地域に潤いをもたらしている。夏季に節水のために流水を止めているのが景観的に残念である。水源が直接淀川からなら鯉や鮒の小魚が泳いでいそうだが違うようだ。子供たちが喜ぶだろうに残念である。
 また「せせらぎの遊歩道」を中ほどまで進むと私が新婚時に住んでいた懐かしいハイツが有る。阪神大震災のあった日は、このハイツに住んでいて、遠くから初期微動(P波)がカタカタカタと近づいてきて、いきなり背中を蹴り上げられるような主要動(S波)やって来た。慌てて、家内とまだ幼い長女をテーブルの下に抱きかかえるように避難させる。幸いハイツには被害がなかった。隣にお年寄りの女性が独り暮らしをしているので大丈夫かと安否確認した。後日彼女から随分勇気づけられたと感謝された。両親が住む近所の実家に自動車で(地震の時はやってはいけない)移動し、両親の安否を確かめて我々も実家でしばらく生活する。母の友人が宝塚から自動車で避難してきた。地震で柱の繋ぎ目が緩んだのか、余震や近くを走る新幹線の振動で家が大きく揺れるようになった。母の友人は、ゆっくりお風呂にも入れないといって、早々に宝塚に逃げ帰ってしまった。
 遊歩道の終わるあたりに「乳牛牧跡」の道標がある。当地付近は、平安時代から乳牛を飼育していたところである。
 典薬寮乳牛院に所属しヨーグルト・チーズに類する乳製品を貢納するとともに、毎年雌牛(メス)・子牛を乳牛院に送致しており、乳牛院では薬用に採乳し、古い牛は牧に返すなどしていた。当地では残った牛を耕作用に使役するなど、徐々に田畑を広げていった。
 このように牧として性格は薄れたが、近世になっても地名として、また明治初期には小学校名として残っていた。「乳牛牧尋常小学校」はその後、私が卒業した「大隅小学校」になる。
 遊歩道は大桐小学校で途切れる。大桐小学校の「大桐」は私が小学校の時は「大道」だったと思う。これも、今は廃寺となった「三宝寺」という大きな禅寺の参道が大きかったので「大道」という地名となったようだ。
 ここからは狭い車道をジグザグに進む。民家に「北野」「西田」の名前が多い。やはり昔からの集落のなごりなのだろうか。私の同級生にも「北野」「西田」姓がいる。
 また道中に御地蔵さんがよくある。
 浄土真宗のお寺も二つある。大阪で本願寺と織田信長や豊臣秀吉が争ったのだが、本願寺の勢力がこのあたりにもあったのだろうか?
 「紅梅稲荷」にいきあたる。入り組んだ細道のちょっと分かり辛い所にある小さな社である。今は大隅神社に合祀されている。私が幼少時には盛大なお祭りがあり、屋台もたくさん出て、お神輿が歌付きで我が家の前まで来ていた。
 源平合戦に敗れた平家の落ち武者は各地に離散し、ここ三宝寺でも農民としてひっそり暮らしていた。しかし、田畑を開拓する為に老松や古木を伐採したことから、不審火や疫病の異変が生じてしまう。
 これらを鎮める為に、1561年、紅梅稲荷と呼ばれた稲荷神社が創建された。
かつて、大和郡山の源九郎稲荷と並んで近畿の二大稲荷とまでいわれ、信仰を集めたそうである。(伏見稲荷は別格なのかもしれない。)

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪