松山神社

松山神社

 松山神社(小松4丁目)は梅林のある美しい神社である。梅花の咲くシーズンには花をメジロがついばみに来ており、神社の裏にある梅林には数々の種類の梅が花を咲かせている。正月の初もうでに友人と行ったら社殿まで物凄い混雑でやっとお祈りの順番が来た。友人が鈴を鳴らしていたら急に鈴の音が消えた。不思議に思っていたら足元に鈴を結わえている紐が切れて落ちてきたらしい。翌年、また初もうでに友人と行ったら、「去年、鈴を落とした人がいたよね。」などと噂としている人がいて我々は赤面した。
 社伝によると延喜(えんぎ)元年(901)菅原道真(845~903)が大宰府に流罪になる途中この地に立ち寄り、数千株の小松の茂る景観に感動し、小松の詩を吟じ直筆の御真像を与え、道真死亡後村民たちは社を構えてお祀りしたが起こりだといわれる。
 明治42年(1909)大隅神社に合祀されるが、昭和19年(1944)地元の復帰運動が実り、小松の氏神として信仰を集める。あの戦争の苛烈な時代に、こんな素晴らしい神社を再建した小松の人達の熱意には驚嘆する。神社側も地域の発展とコミュニティを深める神事・行事を積極的に催し、清浄な梅園や十二支の社、それに珍しい磐座(いわくら・神様がおられる場所)が置かれ、数多くの参詣者が訪れる。服部天神・長岡天神と並んで「三天神めぐり」の一つである。

大阪700の神社と道真

 大阪府には約700の神社があり、そのうち140社ほどは道真(合祀を含む)を祭神にしている。実在の人物でこれほど信仰されている神は、他にはない。道真は文章博士菅原是善(もんしょうはかせすがわらのこれよし)の三男で、幼い頃から学問・文芸に優れ、学者政治家として知られていた。宇多天皇(在位887~897)は藤原氏の権力集中を抑えようと道真を重用したため嫌われ、十四歳の醍醐天皇に帝位を譲って退位するが、そのおり五十三歳の道真を右大臣に、三十歳の藤原時平(ふじわらのときひら)を左大臣に任命して最後の抵抗をみせる。ところが圧倒的に人気の高い道真が邪魔になった時平は、902年若い天皇に「道真は娘婿の斎世(ときよ)親王を新帝にしようとしています。」と嘘を吹き込み、醍醐天皇は大宰府に左遷させるように命じた。道真は淀川を下り難波に(なみわ)に着くが陸地が見えたので上陸したとき、ここは淡路島であろう、といったことから東淀川区に上陸地点を菅原町、そして淡路という地名が出来た。今は阪急電車の駅が出来て再開発が進んでいる。学問の神様になるほどの道真様がこんな間違えをすることはない。よほど京を離れ大宰府に行くのが嫌だったに違いない。これがのちのち祟りとなって京に災いをもたらすのである。

天満宮、天神社が多い理由

 大宰府に着いた病弱で神経質な道真は、ひどい暮らしにも不平一つこぼさず、宇多天皇の御恩や宮中生活を思い出しては漢詩や和歌を詠み続けた。しかし同行した三人の幼児は栄養失調で死亡、道真も脚気と皮膚病、それに不眠症に悩まされ、二年後に五十八歳で病没する。ところが909年に僅か三十八歳で時平も死亡、皇太子も早世し清涼殿に落雷、地震・火災・疫病も流行し、醍醐天皇らは道真の祟りだと恐れ、あわてて全国に道真の霊を祀るよう命じる。天満宮や天神社の多い理由はここにもある。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪