小学校時代

小学校時代の思い出

 3年生時代は腕白のさかり、したい放題やっていた。「ハレンチ学園(永井豪)」の漫画に啓発されてクラス中の女子のスカートをめくったり、分度器を投げて窓ガラスを割ったり。母親も担任に呼び出されて注意されていた。淀川のワンドにY君と小鮒やエビ、タナゴを網で取りに行くのが楽しみであった。丁度1970年の大阪万国博覧会があり、世の中の景気も素晴らしい時である。したい放題の3年生から4年生に進級すると、担任は「吉田」先生になってしまった。スパルタ先生である。おそらく学年主任の3年生の担任が私に手を焼いて吉田先生に私を押し付けたのだろう。
 これには困った。吉田先生は日本大学で空手部に所属していたので今では禁止されている体罰は当たり前。先の学年では怒号とともに引き釣り出されてビンタや拳骨をされる
生徒が続出したのである。これからこの先生が担任かと思うと憂鬱になった。
 先生は毎日、宿題をたくさん出す。して来なければ叱られるので必死である。
 ただ、提出物以外は、授業中に出した宿題を解いていくといった授業方法を見抜いた私は、授業より先回りして問題を解いていく方法を思いついた。これは悪賢さがものをいう。
 しかし宿題の多さも半端なく多い。遊んでいる間は無いのである。おかげさまで学力はクラスでも2番目になった。ある日、先生が「灘中」行きたいものは手を挙げろと言う。なぜ大阪から「奈良の中学校」に通学しなければならないのか?と不審に思い逡巡していたら「こら!室!手を挙げんか!」と脅してくる。訳も分からず手を挙げると満足した声で「よーし、今手を挙げた者達はこれから特別に勉強グループとする」はめられたのである。もう憂鬱になった。
 実際には「灘中グループ」とはいえ、実害はなく、競争とやる気を持たせるための作戦みたいで、宿題が倍増するとか実害がなかったので助かった。
 休み時間は生徒と遊ぶことにされていて、「駆逐本艦」とゆう集団鬼ごっこに我々と夢中になって遊んでくれた。これは楽しかった。雨の日は腕相撲などをして遊んでくれた。
 
 ただ宿題の多さは相変わらずで、やりきれないとまず右出に先生の印鑑。もう一つやり切れなと左手に。さらにやってこないとさらに手に。まだそれでもやってこないと、右の頬に。次は左の頬に、次はおでこに。ついには頬ビンタ。
 さらには「外出禁止令」 さらには「2日間外出禁止」「1週間外出禁止」とこれに累積した宿題が借金のように重く追い重ねられる。

 放課後前に終わりの「反省会」があるのだが、女生徒が宿題を貯めこんで外出禁止になったT君が自転車で遊んでいたとチクる。私は彼女に内心やめてほしいなあと思うのだが、もう遅い。先生が激怒してビンタ。

 もう見ていられない。先生は男女関係なく体罰を与える。ある自習時間の後、、私語をしていたとのことでクラス全員廊下に並べてビンタをされたこともある。よくビンタをされてる友人は頬に毛細血管が浮き上がってきている。
 これだけビンタをされても大きなけがにならない先生の技量がすごい。

私は学校に行くのが嫌になってきて、朝起きたら家から学校が火事で焼け落ちてないかとみるのだが、残念ながらしっかりそびえたつ学校を恨めしく眺めることになる。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪