遠い空の下で暮らす君へ送る交響曲(シンフォニー)

毎年やってくる誕生日

 あれから30年の時を経ていよいよ来月、つまりは12月7日をもって私も60歳になろうとしている。
 予定ではこんなに長く生きるはずではなかった。なぜならアルコール依存症に始まり、高血圧症、脳梗塞、管動脈閉そく症、大腿部の動脈硬化症、つい最近も狭心症を患った。まぁ、長生きをしたい訳でもなかったので田舎を出て大阪に移り住んでからは浴びるようにお酒を飲んだ。  当然前出のアルコール依存症になり入院生活を余儀なくされた。
 誕生日は12月7日なのだが、30年前の12月6日に、当時すでに別の男性と婚約して一緒に東京へ居を構えて居た彼女が新幹線でやってきた。勿論動揺は内心したが、何事もなかったようにいつものレストランで食事をし、いつもの喫茶店でコーヒーを飲みながら共に過ごした8年間の思い出話に花を咲かせた。そのときいつも陽気なマスターは何も言わずに黙って佇んでいた。

最後の別れの時

上越新幹線は終電が速い。時計を気にしながらその時を待った。そしていよいよ帰りの終電の時間が近づいたので我がカプチーノ(オープン2シーターの軽自動車)で駅まで送り新幹線のホームへと2人で向かった。そこへ滑り込むように最終の新幹線が入線して停車位置にとまった。彼女は先頭車両のドアの前に立ち、私を見つめると大粒の涙を流しながら「明日はあなたの30歳のお誕生日ね。おめでとう。そして今までありがとう。明日、結婚します。あなたを愛している。これからもずっと。」そういうと手に持ったバッグを路面に置き抱き着いてきた。そして熱い口づけを交わた。彼女の体の温もりは今でも忘れられない。その横でその光景を見ていた駅員さんは2人の事を見届けた後、警笛を鳴らした。赤い蛍光棒を振り下ろすのに合わせて彼女は新幹線へ乗り込んだ。静かにドアが閉まり滑るように新幹線は彼女を乗せて走り出した。最後尾の車両のライトが見えなくなるまで私は立ち尽くした。それから駅員さんに会釈をしてホームを去った。今でもその光景は鮮明に覚えている。

 10数年後、グーグルアースと言うアプリの使い方を覚えた。実家の景色が鮮明に映し出されるのには驚いた。表札も文字まではっきり読める。時々父の動向を確かめるべく利用していた。そこでやめておけばよかったのかもしれないが、彼女の実家の事も気になりだしてつい見てしまった。するとそこにあったはずの家がなくなり広い道路になっていた。それを見て彼女のご家庭に対して大きな疑念を抱いてしまった。と言うのは彼女の父君は団体職員、母君は町役場の当時係長。当然こういう公共工事は長い月日をかけて設計する。もしかしたらこの事があって別れさせられたのかもしれないと。彼女は家族を大切にする心優しい女性だ。だとすればすべてのことに納得が行く。

それから~そしていま

 色々思い悩んだ末、家を出ることにした。勿論両親に事の顛末を伝えてだ。彼女の行動範囲に居することはお互いに良くないと思ったからだ。最後に彼女と別れてから答えを出すまでに半年以上かかった。とりあえず関東圏に居る訳にはいかないと感じていた。預貯金と自動車を処分したお金を持って、それまでした事のない電車での旅を選んだ。日本中あちらこちらを訪ねて1年半かけて終焉の居を探した。そしてたどり着いたのが大阪市だった。なんとなく立ち寄った居酒屋で見ず知らずの方々がやたらと話しかけてくる。関東ではありえないことだ。そのお人柄に触れて「よし、ここに住もう。」と思った。仮住まいのカプセルホテルから就職試験を受けて何とか住居と仕事を手に入れた。ただ1つ心残りなのは家を出る朝、母が見送ってくれた時、まさか今生の別れになるとは思いもしなかった。後に聴いた話では、57歳という若さで老衰でなくなったと聞いた。その間際に私の名前を呼んでいたと妹から後になって聞いた。もう2度と取り返しのつかない事をしてしまったのだ。妹はそんな私を恨んでいる。以降連絡先すら分からない。悔やんでも悔やみきれないでいる私が今もいる。

人生って奴はやり直しが出来そうでなかなか出来ない事も多い。もとをただせば私にほとんどの責任はある。それだけの方々を支える勇気と力がなかった。

 最後に彼女に送りたい曲がある。ワーグナーの交響曲(シンフォニー)だ。確かに君は美しくなった。奇しくもこの曲が最後の喫茶店で流れていた曲だった。

遠い空の下のゆかり、君は幸せかい?。私は今、ユアライフと言う作業所で優しいスタッフに囲まれて幸せです。
 

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪