かぶと公園

悪七兵衛景清

 悪七兵衛景清がドラマ化された魁は、室町時代に成立した幸若舞曲「景清」(作者不明)である。これは『平家物語』の「薩摩中務丞宗助(なかつかさじょうむねすけ)」が頼朝の命を狙って失敗」と、「越中(こしなか)次郎兵衛盛次(もりつぐ)が情婦に訴人される」、それに「主馬盛久(とめのもりひさ)が清水観音信仰の御利益によって断罪を免れる」との三つの物語に、源頼朝が奈良の大仏供養をした実話を組み合わせ、主人公を景清に置き換えて劇化したものである。
 「東大寺で頼朝を襲った悪七は畠山重忠(はたけやましげただ)に邪魔され失敗、変装して京に逃げ清水の遊女「あこう」に匿われる。しかし「あこう」は梶原景時(かじわらのかげとき)に訴え出たので、怒った悪七は彼女を斬殺して、再び姿をくらます。手を焼いた頼朝は悪七の岳父熱田神宮の宮司を幽閉し脅迫、たまらず悪七は自首し六畳河原で斬首となった。ところが落ちた首は、悪七が信仰していた清水(きよみず)観音のもの、感心した頼朝は悪七を釈放、悪七も眼が見えるとまた頼朝の命を狙うからと両眼をえぐりとり、日向(ひゅうが)宮崎に落ち四十六年間ひたすら平氏一門の供養に努め、八十三歳で往生した」
 という粗筋である。この作品は多くの歌舞淨曲(かぶじょうきょく)に影響を与え、主なものだけでも、
 謡曲「大仏供養」(作者不明)  「景清」(世阿弥)
 歌舞淨曲・・・「出世景清」(近松門左衛門)   「大仏供養景清」(中村清三郎)
        「日向景清」(桜田治助)     「二人景清」(中村藤橘(とうさつ)
        「身替景清」(福地桜痴)(おうち) 「茶湯景清」(作者不明)
        「月梅摂景清」(桜田治助)    「琵琶景清」(河竹黙阿彌)あみ
        「岩戸景清」(桜田治助)     「丹前景清」(桜田治助)
        「歌舞伎十八番景清」(藤本斗文(とぶん))
 草双紙(くさぞうし)・・「景清百人一首」(朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)
等がある。現在も宮崎の生目(いきめ)神社(宮崎市生目)は景清を祭神とし眼病霊験で知られ、平和台公園(同市下北方町)には景清墓と伝える古墳跡が残っている。また難波寺(大阪市生野区巽北一丁目)には、景清が守り本尊として大切に所持していた十八センチほどの観音像が祀られ、俗に野中の観音と呼ばれて「大坂三十三観音めぐり」を代表するほど有名である。これらがいずれも以上の文芸作品から作られたことを思うと、悪七人気は根強いものである。
 さてこれらの作品群の中で、初めて伯父大日坊なる人物が登場するのは、延享(えんきょう)五年(1748)初演の中村清三郎作「大仏供養景清」である。これに親切ごかしに悪七を助けた伯父大日坊が賞金に目がくらみ、訴人しようと家を出たところを気づいた悪七が追いかけて殺害、衣を奪って僧侶に変装して逃亡する名場面がある。悪七に二枚目スター二代市川団十郎、大日坊み悪役の名手中島三甫右衛門(さんほうえもん)が扮し、団十郎を陰険な手口でいじめる三甫衛門の達者な芸がおおいに客席の憎悪を買い、「中島の大日坊」と嫌われた。役者冥利に尽きる。中島はいつしか地名とダブったのか、光明寺(淀川区西中島七丁目)の本堂裏に、悪七兵衛景清とその一族と伝える墓が現存する。このように大日坊は脚本家中村清三郎が、謎の多い三宝寺の大日坊能忍(だいにちぼうのうにん)の名前を借用して捜索した創作した可能性が高いと思われる。以降の景清物にはしばしば伯父大日坊が登場し、いつの間にか真実として一般化されたのではないだろうか。

菅原一丁目~七丁目

 菅原一丁目~七丁目(六丁目は除く)付近は、開発者三島江屋太郎兵衛(みしまこうやたろうべえ)の名をとって寛永の頃(1624~)「太郎兵衛新家村」とか、二重堤逆川(ふたえつつみさかがわ)に因んで「二重新家村(ふたえしんけむら)と呼ばれていた。同五年(1628)代官豊島重左衛門(てしまじゅうざえもん)から太郎兵衛に宛てた文書に「北中島之内かぶと同二重堤之内、同両堤かぶと外島新田」の文字が見え、開発した新地だから三年ほど年貢諸役を免除してやると記されている。つまり当時「かぶと」の地名は既にあったことが解る。太郎兵衛は伊予大三島出身の武士で豊臣方にういたため、元和(げんな)元年(1615)大坂夏の陣で敗れ、当地域に落ちてきた。二度と武士にはなるまいと鎧・冑(かぶと)を脱ぎ農民になり、地域の開発に尽力、人格者で村民たちから慕わられ恩人として尊敬される。だから「かぶと」は悪七でなく、太郎兵衛の故事に因むのであろう。中島大水道開削の庄屋一柳太郎兵衛は、この子孫である。

二重堤逆川二重堤逆川

二重堤逆川について説明する。江戸時代の淀川は、この辺りで逆流し水勢激しく堤防はしばしば決壊、大被害をもたらした。それで太郎兵衛らは東西二重の堤を築き、鎮護のため菅原天満宮(菅原二丁目)を勧請する。天満宮は小丘の上にあるが、あれは東堤上に置かれた名残りと、天保(1830~)の頃代官築山蔵座衛門(つきやまくらざえもん)が「堤防崩壊禁止令」を出し、堤防の盛土を命じたからである。今も毎年十月に境内に土を運ぶ土持(つちもち)行事が続いている。
 東風(こち)ふかば匂いおこせよ梅の花あるじ
 なしとて春名忘れそ
大宰府に左遷されるとき、菅原道真が父是喜(これよし)の屋敷で、大好きな梅樹を眺めながら詠んだ有名な歌碑も建っている。感激した梅が大宰府まで飛んできた「飛梅伝説」は有名である。
また石段下に近年珍しくなった「牛まわし」碑がある。昔は農村によく見られた碑で、新しく牛を飼うとき早く飼い主に慣れるようと念じながら、牛を引っぱって三度石の回りをまわった風習をとどめたものである。大抵は九十センチほどの自然石に「如意宝珠天(にょいほうじゅてん)」と刻んでいる。碑陰に延享元年(1744)の年号が入っており、道真と牛に因んでここへ移したと思われる。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪