病気と向き合う

私なにか悪いことしましたか。

私は、生まれたときから体が弱く度々、熱を出し病院に通っていました。
私が4歳のころ原因不明の高熱が続き、かかりつけの病院から紹介状をもらって大病院で検査をしてもらう。
亡くなった母からよく聞かされていました。4歳ころの高熱の原因は「リュウマチ熱」だったそうです。
そのころの記憶で覚えているのがデカい注射器で血を抜かれたこと。

小さかったから注射器が大きく見えたのかもしれません。これが、私の病気と人生の付き合いになった一つです。

大なり小なり何かしらの病はあり生まれてから今まで病院と縁が切れたことがないと言っても過言ではありません(笑)
小児喘息にもなって、気道が狭くなり息苦しさとともに過ごす日々。

小学生の時は遠足に、ほぼ参加したことがないというくらい「遠足の当日に熱」がでるのです。本当に不思議でした。
春と秋に遠足があるのですが小学1年生のときから6年生の時まで続きました。
例えば、春の遠足は熱で行けなかったら秋の遠足だけは行ける。年間で遠足だけで春と秋のどちらかしか行けませんでした。

前日におやつを友達と買って、準備万端なのに朝目覚めたら頭が痛く発熱していました。

高校生のころ

高校は夜間高校に通っていました。昼間は仕事をして夜は学校へ行っていました。その生活がハードだったのか?
1年の夏休み前くらいに肝臓を悪くして、原因不明のため何度か通院して検査を受けました。
当時のこと覚えているのは、総合病院だったのですが最寄り駅から20分くらい歩いて行ったこと、待ち時間が長かったこと
採血をするのに何時間も待たされたことくらいです。

検査をしても結果、肝臓の数値が少し高かったくらいで治療するていどの悪さではなかったのです。原因はわからなかったのです。医師からは自宅で休養しながら調子が悪くならなかったら通常の生活に戻ってもよいと言われました。

特に変わったこともなかったので、今まで通り昼間は仕事をして夜は学校に行っていました。そんな生活も4年経った夏休み
のある日、物の見え方が二重に見えるようになったのです。複視というやつです。これが、重症筋無力症だとわかるまで時間がかかりました。

当時はインターネットなんてなかった時代だったので、どこの病院に行けば診てもらえるかわからず、少し休むと症状が改善されたので、すぐに病院へ行くことはしませんでした。

重症筋無力症とわかるまでの道のり

自宅の近くに小さな総合病院ができて間もないろ、弟が1型糖尿病で小児科通院していたので私もそこの病院で診てもらうことにしました。19歳になったばかりで、看護師さんが弟と同じ小児科へ問診票をだしました。このことは後々、結果オーライになる出来事でした。当時、診察を担当していた小児科の医師が神経内科専門医だったのです。

私の症状を診て、すぐに同じ病院の系列で週に1回大学病院から神経内科の先生が来ているから一度、そこで診てもらうことになりました。その時は午前の診察が終わりに近い時間だったため、病院の救急車に乗って系列病院へ搬送されました。
初めての救急車になにやら重大な病気?そう思える医師の言葉に動揺して涙が止まらない状態でした。
母も付き添っていましたが泣く私を見ても優しい言葉はかけてもらえず、泣いてることに非難されました。

週に1回大学病院から来ている神経内科の医師が私を診て、詳しく検査する必要があるので大学病院へ行くようにと紹介状を書いてくれ、曜日指定で紹介状を持って行き方を教えてもらい当日朝早く大学病院へ行ったのです。

この時、心の中で「なぜ、私だけ病気ばかり?」「私が何か悪い事したの?」なんの罰なの・・・そんな気持ちでいっぱいでした。この時の私は食欲が全くなく緊張と原因はなんなのか。心配事で余裕はなくメソメソしていまいした。

続く・・・。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪