インド旅行の思い出 乗り合いバスの洗礼 人力リクシャーの老車夫

インド。

 大学卒業前の卒業旅行はインドにした。前年にアメリカ旅行をした時に、日本の文化や歴史の事を聞かれ、歴史の新しいアメリカにそのようなものが少なく随分羨ましがられた。それならば日本の文化のルーツになる中国かインドに行ってみたいと思ったからである。小学校からの友人が中国に行くち言うので私はインドを旅行先に選んだ。ただ一人では心細い。三人で行くことにした。何故かと言うと、2人で行って喧嘩でもしたらバラバラになって一人ぼっちになってしまう事と、病気になったりしたら一人が看病に、もう一人が医者への連絡やもろもろの救助行動にあたれるだろうと思ったからである。更にもう一人一緒に行きたいと参加を申し出てきた友人がいたが、すでに3人のメンバーは決めており、4人になるとまとまらなくなるので丁重にお断りした。
だと思った。まだひどい貧富の差があり物凄い原始的な生活をしている。その反面すでに人工衛星まで打ちあげる技術立国である。

インドの楽しみ方。

 インドまでは
まず①エジプト航空でタイのバンコクまでいって、
②そこからタイ航空でインドのデリーまで行く。
③デリーから「タージマハール」で有名なアグラーまで「タージ急行」で行く。
④アグラーからヒンドゥ教、仏教の一大聖地のバラナシ(ベレンス)へ。
⑤その後カルカッタまで鉄道移動。
⑥カルカッタからネパールの首都カトマンズへ。
⑦帰路はカトマンズに戻り
⑧またタイのバンコックで止まって日本に向かうといった行程である。
①まず日本から乗ったエジプト航空だが、CAが見渡す限り一人だけで不愛想な上、機内サービスも粗暴で十分ではなかった。マニラまでは日本からの出稼ぎ帰りのフィリピン人たちが多く乗っていた。そこでごっそり飛行機から降り登場してきたのはごくわずかである。
②タイ航空に乗り換えるためバンコクで機外に出る。ムッとするような湿気と熱気。それに香辛料の匂いが何故か立ち込めていた。
 タイ航空はエジプト航空とは異なり愛想の良い綺麗なCAさんで機内サービスも行き届いていた。
 深夜、デリーに着陸態勢になり、街を機内から見下ろすと、街の灯りは白色灯ばかりで赤や青のネオン灯は殆どない。
 空港からデリー市内まで乗り合いバスで行こうと空港から出た途端、タクシーの運ちゃんやホテルの客引き達に取り囲まれてしまう。ものすごいセールス攻勢に辟易しつつ乗り合いバスに飛び乗った。バスのヘッドライロは片目になっており、前部のドアは取れて無くなっている。運転席には神様の絵がお祀りしてあり、キンキラのモールが飾りつけにぐるりと運転席を飾ってある。私は観光がしやすいように一番前の左座席に陣取った。壊れて無くなっているドアの後ろである。まだ陽も明けきらない夜明けのデリー空港をバスは出発した。運ちゃんは今では珍しい8トラックのカーコンポから流れる宗教音楽に浮かれて白目むき出しで歌いながら相当なスピードでハンドルを握る。たまに片目のヘッドライトに照らされる野良牛を荒っぽく避けるのだが、そのたびに壊れて無くなった前部ドアのすぐ後ろに座っている私振り落とされそうになる。シートにしがみつく事、小一時間でデリー市内の停留所に無事降車できた。
降車したバス停のすぐ近くの公園で休憩することにした。くつろいでいると、一人のインド人がやってきて耳掃除をしないかと聞いてくる。面倒だから断ると綿棒のようなもので私の耳穴をほじくり、そこにうっすら付いた耳垢を私に見せ「ユア・イヤー・イズ・ベリー・ダーティー」(あなたの耳はとても汚い)とのたまう。煩いし離れそうにもないので耳掃除をお願いする。掃除代は我々からしたら安いものである。耳掃除屋はなにやら油のようなものを綿棒に染み込ませて、それで耳の中を湿らせた上で本格液な耳掃除を始めた。結構気持ちが良い。掃除が終わると、残りの友人二人も耳掃除をしてもらっている。しばらくしたらまた別のインド人がやって来てマッサージ屋だと言う。断わっていると私の手を握り、指を引っ張って「ポキッ」と音が鳴るのを私にも聞かせ、「ユー・アア・ベリー・タイヤド」(アンタはとっても疲れている。)と言う。もう断るのも疲れてしまい、長旅で疲れた身体を彼に委ね私たちはマッサージをして貰った。
初めてのインドで、泊まる宿舎は「大英帝国ホテル」に決めていた。ガイドブックの「地球の歩き方」はこの旅で随分と役に立った。どうやって朝ご飯を摂ったか忘れてしまったが、お湯の出るお風呂があるのがそのホテルしかなかったのだ。物価が安いのでそのような一流ホテルでも我々がスィートルームに宿泊できた。
一気に安宿に泊まるととんでもない経験をしてしまうと本に書いてあったので、少しずつインドに慣れて行こうとするためである。それでもシャワーからは最初は水でお湯が出るめでかなり時間がかかった。
大きな荷物はホテルに置いて、デリー観光に出かける。まずは朝ご飯である。少しまともなレストランに入ってカレーを注文する。以降インドではほとんどの料理がカレー味なので私達にはすべてカレーに思えてしまう。やっと朝ご飯が運ばれてきた。インドでは右手をスプーン代わりにして、ボールにある水で手を濯ぎながら食べると、ガイドブックにはあった。そこで手でカレーに突っ込もうとして周りを見渡したら、周りのインド人達は皆スプーンでカレーを食べているではないか。これには驚いた。我々の勝手な先入観である。TPOで食べ方も違うのである。
 飲み物だけは、お腹を壊すので生水を飲まないようにしていた。その代わりインdptのお茶「チャーイ」(沸騰してあるので殺菌済)か「カンパコーラ」(コカ・コーラのイン版、当時インドは反米主義だったのでコカ・コーラは売っていなかった。これなら細菌でお腹を壊さない)が主になる。
街中は人々でごった返しており、そこをタクシーやオートリクシャー、自転車のサイクルリクシャ、自動車などが混沌として走り回っている。さらに、野良牛、野良ヤギ、野良犬、野良猫その他の動物たちが加わるので目が回りそうになった。
お昼は屋台でカレーを食べた。「エッグカレー」を注文すると紙コップにゆで卵を一つ入れてそこにシャバシャバのカレーを注ぐ。中身を見たら殆ど透明な赤っぽい液体にトウガラシが沈んでいてそれにゆで卵が沈んでいるシロモノである。トウガラシ汁にゆで卵が入っただけの粗末なカレーで当然美味しくない。それでもインド人にとってはご馳走なのだろう。
マーケットを見物していると、八百屋があった。見ていると野良牛がやって来て野菜を食べようとする。その鼻っ面を八百屋は思いっきり棒でぶん殴っていた。牛は神聖な動物で大切にされていると思っていた私はびっくりした。しかし八百屋にとっては死活問題であるからやむを得ない。そう、カレーで牛肉が入っている事があったが、あれは牛肉ではなく水牛の肉だそうだ。なんでも水牛は牛とは異なるらしい。
③デリーから「タージマハール」で有名なアグラーまで「タージ急行」で行く
 次の目的地は「タージマハール」で有名なアグラーである。「タージマハール」は、ムガル朝第5代皇帝「シャー=ジャハーン」が亡くなった妃「ムムターズ=マハル」のために建てた廟堂で、1632年から約20年かけて完成。装飾美術の粋をこらした白大理石造りで、正面には噴水を設けた細長い池にイスラム風庭園が広がっている。デリーで切符を買おうと受付に並ぶが、皆窓口に群がって勝手気ままに列車を買おうとするので、お行儀よく並んでいたら切符を買えそうにない。そこでみんなと同じように窓内に群がって手を伸ばし大声で行き先と列車名を連呼する。やっと切符を手にいれホームに降り立つ。デリー駅は線路幅は広軌で1676もあり物凄く広い。ちなみに日本はJRの在来線が1067mm、新幹線や阪急電車1435mmである。
バラモン僧が立ちふさがる。何か喚いているがヒンズー語でよくわからない。どうも我々が日本人であるので、一番低いカーストに仏教徒が多いので、お前たち下賎な民族が一等車に乗ると穢れるから乗るなと言っているようである。そんな理不尽なことがあるものか、無視して乗車してしまえと指定席に座る。列車が発車して随分たってもずっとそのバラモンはこちらを睨んでいた。
 農村地帯を列車は走る。斜面に女性たちがしゃがんで列車を眺めている。逆光で良く見えないが彼女たちの股の下にこんもりした何かがみえる。あれは何だろうと話していたら恐らく彼女たちは野グソをしているのだという結論に達して、そののどかさに驚いた。
 指定座席一列あたり3人掛けと4人掛けで座席を跳ね上げると寝台にもなる。窓にはすべて格子がしてある。おそらく防犯のためではないだろうか。また夜になるとライフルを手にした兵隊が各車内出入り口に警備のために立つ。窓の格子は防犯の意味があるが、一度鉄橋からの列車転落事故で格子があるので窓から脱出出来ず、大勢の乗客が犠牲になったと言う。食堂車や車内販売は無く、時々駅から「チャ~イ チャーイ」と言いながらインドの甘いミルクティーであるチャーイを車内販売に来るだけだ。お腹がすいたので長時間停車する駅で食事を済ませて列車に戻る。車内を見ると軍隊が乗り込んでおり、あろうことか我々の座席を大きな体格をした兵隊が占拠している。座席から退くように言いたいが恐ろしくて言えない。仕方が無いので隊長とおぼしき士官に切符を見せて兵隊を退かせるようにお願いした。さすが軍隊、占拠している兵隊に命令したらすぐに座席から退いてくれた。
まもなく(そう言ってもインド時間だから数時間だったかもしれない)アグラーに近づいてきた駅で一人の陽気なインド人が乗り込んできて英語で話しかけてきた。雑談が上手く面白いのであれこれ話していると、彼は宿屋を経営しており、安くてきっちりしているから彼の宿に泊まって行かないかと誘う。駅から宿屋までは彼のオートリクシャーに乗ればよいとの事。これでアグラーに着いてから宿屋探しから解放されると喜んだ我々は彼の誘いに乗ることにした。
アグラーに着いて駅に置いてあった彼の三輪オートリクシャーに乗る。そのまま彼の宿屋に向かうと思っていたら、大理石の土産物屋に立ち寄る。我々を案内しながら、土産物を買わそうとする。土産を買えば彼の懐に土産物屋から、報酬が入ることになっているの
だろう。執拗に土産を買うよう勧めてくる。このままでは宿にたどり着けないと考えた我々は一番安い大理石のカップコースターを購入して店から解放されることに成功した。しかし宿屋に向かう道中で彼はオートリクシャーが故障したと言って、修理屋に行くと言い出した。そしてその修理している間に別の土産物屋に行こうと言い出す。呆れてもう土産物屋には行くつもりは無いから、とっとと修理を済ませて宿屋に行こうと彼を急かす。どうにか修理屋らしきところで(修理をしたのかどうかわからないが)修理を済ませてやっと宿屋に到着した。店には小学校高学年くらいの少年が雑用をしていた。聞くと両親はカルカッタより遠い街で働いており、少年だけがこの宿で雑用係として働いているらしい。
アグラーにある「タージ・マハル」は総大理石の墓廟(ぼびょう)。ムガル帝国第5代皇帝「シャー・ジャハーン」が、1631年に死去した愛妃「ムスターズ・マハル」のために建設した。インド・イスラーム文化の代表的建築である。今では1983年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
宿に着いた我々は早速「タージ・マハル」に行くことにした。宿屋の主人に送ってもらうとまた土産物屋に連れて行かれそうになるので、我々三人だけの行動である。宿からそう遠くないところに「タージ・マハル」はあった。想像していよりずっと大きな大理石の建物である。暗い建物内には、赤い透明の石が埋め込まれており、美しい光が差し込んできて幻想的であった。「タージ・マハル」から宿への帰路についたのだが道に迷ってしまった。そのうちに日が暮れて、彷徨う我々は物凄く不安になった。インドには街灯が少ない。すると物悲しい旋律を鳴らして象に乗ったパレードのがやってきた。余計に心細くなる。
その時、偶然に宿屋の雑用をしていた少年に出会った。少年の誘導で宿屋にたどり着けた。少年の歩き方が変だったので脚を見せてもらうと怪我をしている。応急処置でリュックサックからヨードチンキを出して塗ってやった。結構ヨードチンキは沁みたと思うが悲鳴一つ出さず我慢していた。
翌日、朝食後は宿屋の主人と雑談していた。主人が宿屋に泊まった客の写真を取り出して思い出を話し出す。美人と仲良くなってベッドインした話が多く、こればかりは万国共通だなと苦笑した。
④アグラーからヒンドゥ教、仏教の一大聖地のバラナシ(ベレンス)へ。
次の行き先はバラナシ(ベレナス)である。ガンジス川沿いに位置しヒンドゥー教の一大整地としてインド国内外から多くの信者、巡礼者、観光客を集めるインド最大の宗教都市である。街の郊外には、釈迦が初めて説法を行なった説法を行なったサールナート(鹿野苑)がある。また古くは「カーシー国」とも称され、波羅奈国とも称された。ヒンドゥー教、仏教の聖地として重要な都市である。
今度は宿屋の選定から始めないといけない。インドに来てかなり交渉慣れしてきた我々はそう手間取る事も無く宿屋を見つけてチェックインする事が出来た。あまり安い宿にすると南京虫がベッドにいたりするので中程度の宿である。リュックを盗まれると困るのでリュックを縛る鎖と鍵を買う。若い日本人だと思って値段をふっかけてくる。それを値切りに値切ってやった。立ち去り際に、「ベリー、チィイパー、ミスター、ジャパン(物凄くケチな日本の旦那)」と店主が嘆くのを聞いて我々はしてやったりと得意になったものである。食事はカレーが続いて飽きてきたのでチャイニーズ・レストランで中華料理にする。テーブルの上が埃っぽいので拭うと赤茶色である。我々の上着を洗濯したら何度洗っても赤茶色の汚れた水がしたたり落ちる。それどころか洗髪しても赤茶色の汚れが滴ってくる。顔も赤茶色の埃で汚れている。唇を舌なめずりしてやると甘い味がする。我々がインド旅行をしたのが乾季なので道路に落ちた野良牛の糞が埃となって、このような笑えぬ現象に。
街に繰り出すと、インドに魅せられて、ずっとベレナスに住み込んでいる学生やら、宿の経営までしている日本人もいる。豪傑にも一人旅をしている女の子もいるらしい。
ガンジス川にむかうと岸辺にガートという傾斜した階段状の沐浴場がある。そこではヒンドゥー教の身を清める儀式である沐浴が行われる。まず川に入り、太陽に向かって聖水(川の水)を手に汲んで祈りの言葉をつぶやきながら太陽に捧げ、その後、自分の頭や体に水をかけて清める。沐浴は朝日に向かって行うのが最も良いとされており、そのためヒンドゥー教の巡礼者達は早朝から、このガートからガンジスの水の中に浸り、朝日に祈りを捧げる。これが聖地ベレナスを代表する光景となっている。また洗濯をする人やヨーガを行う人がいたり、小広場や祝祭の場、レスリングの会場にもなるなど、宗教のみならず生活にも密着した日常生活と社交の場として機能している。

べレナスのガンガー。

ベレナスのガンガー(ガンジス川)近くで死んだ者は輪廻から解脱できると考えられている。このためインド各地から多い日は100体近い遺体が金銀のあでやかな布にくるまれて運び込まれる。またインド中からこの地に集まりひたすら死を待つ人々もいる。彼らは「ムクティ・バワン(解脱の館)」という施設で死を待つ。ここでは24時間絶えることなくヒンドゥー教の神の名が唱えられる。亡くなる人が最期の時に神の名が聞こえるようにとの配慮である。ここで家族に見守られながら最後の時を過ごす。
友人のT君が運悪く落ちていたウンコを踏んでしまい、靴を洗いに川岸辺に行って川の水で靴を洗っている。すると、野良犬が何かを咥えてやってきた。何だろうと凝視していたら、なんとそれは人間の手首である。火葬場で見つけて咥えてきたのだろう。そう、ガートの隣は火葬場でありそこから手首を持ち出したのだろう。沐浴するガンガーには幼児などは火葬にしないでそのまま上流から流している。その川の水で沐浴し口をゆすぐのである。よくそんな不衛生な水で口を漱げたものだ。我々なら一発でお腹を下す。下手をするとコレラになるかも知れない。洗濯もそこで女性がしている。石鹸をつけて硬いガートに叩きつける荒っぽい選択の仕方である。
舟に乗った青年が我々の前に漕ぎよせて、火葬場を見学しないかと誘ってくる。滅多に見れないので乗船して川の方から火葬場に向かう。写真は写してはならないと注意をうける。ガートには白い死に装束を着た老人が横たわっている。聞けば老人達は死期を悟って、死んだら火葬にしてもらうためにガートに横たわっているらしい。火葬場の近くまで行くと、お金を払うならば写真を撮ってもいいと先ほどの説明と矛盾した事を言い出す。まさに三途の川も金次第、不信心なことは甚だしい。写真撮影は丁寧にお断りして、帰路につく。岸辺が近づいてきたら、船頭はやにわに数珠を取り出してそれをセールスしだした。300円程度の価格で買わないかと言ってくる。私がポケットから100円ライターを出して見せ、これと交換しようと商談する。ところが船頭はライターが100円だと知っており首を縦に振らない。そこで私は、これは日本では100円だが、インドまで飛行機で持ってきたのだから300円の値打ちがあると主張したら、しぶしぶ納得して数珠と100円ライターとの物々交換は成立して、三人全員数珠を手に入れられた。インド人の商魂逞しいのには恐れ入った。しかし彼らと丁々発止で値切ることの快感を覚えだしたのも確かである。日本の商社マンにはインド人もビックリという話を聞いていたので、「丸紅」や「伊藤忠商事」などの商談はさぞかし面白いだろうなと思った。
 ベレナスには寺院が多くあり、そこの柱には神様同志が様々な体位でセックスをしている彫刻があるのには驚いた。日本の神社仏閣ではありえない生々しくもおおらかな彫刻である。仏教の寺院もあったと思うがその彫刻のショックからかよく覚えていない。
ベレナスからインド第二の都市であるカルカッタまで列車で移動した。カルカッタに降り立ってデリーに負けず劣らずの混沌とした喧騒に辟易する。道路の脇には手も足も無いダルマさんみたいになった乞食が居た。朝早く乞食の仲間が彼をそこに置いて夕方になると引き取りに来ると言う。悲惨な者であればある程、恵んでもらう金が多い。つまり稼ぎ頭となるので乞食の仲間では大切にされる。一種の社会保障になるわけだ。しかもカースト制度の中では他のカースト(職業)に代われないから、乞食に生まれたら親子代々乞食をしなければならないのである。もっとひどい子供の乞食を見たことがある。熱湯をかけられたのか首と肩がひっついた少年の乞食である。これは衝撃だった。改めてカースト制度の問題を考えさせられた。
カルカッタの博物館に行った。そこには奇形の生物の間があり、100本近く足の有る蛸や一つ目の人間の胎児などが展示してあり気持ちが悪くなった。。
土産が増えすぎたので、自宅に船便で送る事にした。象に姿を変えた「ガネーシャ」という神様の石像や、「タブラー」と呼ばれるインドの太鼓類などなど。インドでは荷物を送る際、白い布で包み、出し口を蝋で刻印をする決まりになっている。まずマーケットで白い布を買わねばならない。そこに荷物を梱包して郵便局の前み立っている刻印屋に蠟の刻印をしてもらう。荷物を送り終えて郵便局を出たら刻印屋が土産にサリーを買って行かないかと誘ってきた。彼がまじめそうだからサリー屋に連れて行ってもらう事にした。サリーは品数が多く目利きの出来ないので戸惑っていたら、インド航空のパイロットと名乗る紳士が身分証明書を見せながら、サリーの目利き講談を始めた。興味深く聞いていた我々に気をよくした紳士は、ビールをご馳走するといって我々にもふるまってくれた。なるほど、化繊のサリーはすぐチリチリになっている。我々の次の旅行先をネパールのカトマンズだと聴いた紳士はビジネスをしないかと持ちかける。君たち、この絹のサリーをネパールのカトマンズにある私の教える店で卸したら三倍の値段で売れるぞ。まあ、もう一杯ビールを飲めよ。といってビールを注ぐ。
後日、ネパールのカトマンズで紳士に教わったサリー屋にいって卸そうとしたら、店主はサリーを見て爆笑した。我々が騙されて化繊のサリーを買わされて来たのだと言う。思い出せば、禁酒日であるにもかかわらずビールをふるまわれるとか話が上手すぎるわけだ。仕方が無いので化繊のサリーは日本に持ち帰り母の手にかかりカーテンに化けた。
象の石像「ガネーシャ」は仏壇にかざった。我が家は「浄土真宗」でお祈りに来られるお寺さんにも注意されなかったが、ずいぶんおおらかな事をしたものである。
太鼓(タブラー)も船便で自宅に送った。叩き方が良く分からないので床の間にまだ飾ってある。ネパールのカトマンズで少年が叩く演奏会を見た。30ほどある太鼓(タブラー)を少年がそれは見事に演奏し、腰を抜かした。彼もまた先祖代々、太鼓を叩く家業であったに違いないと思う。
カルカッタからネパールのカトマンズまではネパール航空である。小さな飛行機で行ったのだが、狭い機内で煙草を吸う客が多いのには閉口した。窓からヒマラヤ山脈らしき山々が一瞬みえたがすぐ雲で見えなくなり、狭いカトマンズ空港に着陸した。街に出るとインドとは違ってまずまず静かな町である。ホテルにチェックインして街に繰り出す。先述のサリー屋で店主に笑われたあと、適当なレストランに入る。宗教は仏教の開祖釈迦(仏陀)の生誕地であり、ヒンドゥー教(元国教)、仏教、アニミズム等とその習合が混在する。よって、レストランによっては普通の牛肉(水牛ではない)が提供される。味付けもインド程個性的ではなく、日本人には食べやすい。食べ終わって寺院を巡る。仏教寺院も日本とはずいぶん違った。白人の観光客も多く、彼らにとっても過ごしやすいと思った。翌日自転車を借りてヒマラヤの山々が見える河原にいった。途中から少年たちが合流し仲良くなったので写真を撮ってやったらモデル代を請求された。やはりここでも我々は絶好のカモなんだろう。
カトマンズからまたインドのカルカッタまで帰る。物凄い喧騒である。リンゴを買うために屋台で並ぶ。我々の順番になると、前のご婦人が買った3倍の値段をふっかけてくる。抗議すると、我々は裕福な日本人だから3倍の値段が適正価格だと言う。理不尽だがその時は、それもそうかと納得し買ってしまった。乞食の子供にもたかられた。ガイドブックには恵むと際限なくたかられるのでやめておくように書かれていた。しかし小銭を手にした彼らは母親らしき女性のもとに行って我々を指さし、恵んでもらった事を報告している。そのまま大勢の乞食に囲まれるかと心配したが、そんな事もなくその場を立ち去る事が出来た。
パタヤビーチまでタクシーで向かった。適当なホテルで部屋に案内してもらう。案内してくれたメイドさんのような娘さんが色っぽくて驚いた。誘惑されていたかもしれない。表に出て、おばさん達が食事をしている屋台に立ち寄る。そこでタイ風ヤキメシを注文する。食べたら随分と辛い。四苦八苦している我々を見ておばさん達が大笑いしている。のどかなものである。続いて髪が伸びきっているので散髪屋に行った。そこではオカミさんが、懐かしい手動バリカンで調髪してくれた。ビーチでは生まれて初めてウインドサーフィンをした。屋台ではヤシの実を買い、穴をあけてあるヤシから冷えた実の中の甘い汁をすすった。ビーチで休んでいると、向こうからトップレスの白人女性が散歩してくる。なんともおおらかなものである。
夜のパタヤビーチは歓楽街と化す。飲み歩いたが、タイ料理は辛いけど我々の口に合った。タイを楽しんだ我々は翌日の飛行機で日本に帰国の途についたのである。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪