新庄城

新庄城

遺構 消滅 再建建造物 石碑(明教寺縁起)

新庄城は、茨木城主であった中川清秀が茨木城の支城として築いた城である。
跡地は現在、明教寺となっており特に遺構などは残っていないが、寺の境内に城の由来をあらわした石碑がある。
新庄地域は上新庄一丁目~三丁目、下新庄一丁目~六丁目に分かれるが、この地名も古い。一般には戦国武将中川清秀が新しく当地に「出城」(本城を守るための砦)を置いたため、新城の名が起こり新庄になったといわれるが、別に乳牛牧が新しく開いた庄だとする古文書もあるそうである。

中川清秀

中川清秀(1542~83)は茨木城主、本能寺の変の後豊臣秀吉につき、山崎合戦で奮闘、明智光秀を破った最大の功労者である。賤ケ岳合戦では親しかった柴田勝家の本陣に出向き無謀な戦いはやめて秀吉に従うのが天下の情勢だと説得するが、立腹した勝家の部下佐久間盛政(さくまもりまさ)の軍勢に急襲され、あっという間に討ち死にした。勝家に帰順すれば助けるという盛政に
「帰順逃亡して鈍兵といはるるは生涯の不覚、死すとも退くなかれ」
と答えて突撃していったと伝える。
清秀がいつ頃新城を立てたのかは分からないが、彼の経歴からみて天正二年(1574)頃かと思われる。『摂津郡史』に天守跡・馬洗(うまあらい)などの地名が出ており、新城説を補強している。

明教寺

明教寺(下新庄五丁目)は、金田刑部太夫(かねだぎょうぶだゆう)という武士が真宗西本願寺に帰依し教誓(きょうせい)と改め開基しているが、山号「城地山」は当然新城を意識したものだろう。同寺には本願寺二世如信(にょしん)が刻んだ珍しい「親鸞石枕木像(しんらんいしまくらもくぞう)が奉安されている。山門脇に安置碑があり「北大阪電気鉄道株式会社」と刻まれている。同社は現在の阪急電車京都線で、つまり私鉄が沿線の大切な史跡として建碑したことが分かる。また明教寺の十三代住職善亮(ぜんりょう)は豊後日田(ぶんごひた)の有名な広瀬淡窓(ひろせたんそう)の「咸宜園(かんぎえん)」に学んだ秀才で明治十九年(1886)「修文学館」を開き、門人たちを育成した。「西涯(せいがい・彼の号)」先生碑」がある。
東淀川区の神宮や僧侶のなかには善亮のような学問や史学、文芸方面にも業績を挙げた方が多いのだが、妙道寺(みょうどうじ・淡路五丁目)の二代住職淨龍(じょうりゅう)は、永年助産婦として功労があり、大阪府ナイチンゲール賞を受けておられる。

written by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪