色々な対策はしてきました。
身の回りで2年ほど前からポチポチと、特に当時同じクリニックで感染が始まっていたのは認識していました。自己防衛策としてマスクは不織布の物だけを2枚重ねで市内とマンションから出ませんでしたし、買い物もお客様のマスク着用率が高く、常連さんが多いお店を選んでいました。幸い今通っている作業所とマンションの通り道に全てが揃っているので今までは何事もなく過ごしてきましたので、TVの報道を見て「大変な事になっているなぁ」としか思っていなかったのも事実です。はっきり言って心のどこかで感染症というものを舐めていたのかもしれません。それから自分だけ感染しなければ良いという浅はかな気持ちもあったのでしょう。どこか他人事と捉えていたのかもしれません。
ある時突然その時は来ました。
丁度谷九の山田さんと急ぎの作業をそのころ続けて3階の作業スペースで毎日行っている日々でした。朝出勤してから対処するまで例のフリータイムもお構いなしに作業を続けていました。たまたま普段はいらっしゃらない大勢の支援学校の先生方が作業所に見学にいらっしゃっていまっした。ミーティングの後私たちの作業ぶりを見学なさっていたのですが、ちょうどその日八出勤人数が少なく、私と山田さんと2人きりで3階の作業スペースでいそいそと作業していましたところ、先生方が2班に分かれて1回の作業現場と3階の私たち2人をかわるがわる見学なさっていきました。私たちは直接言葉を交わしたりはなかったのですが、ずいぶん長いこと見学しているなぁ、と感じたことは覚えています。その日は金曜日で仕事もある程度切りの良い所で終わりたかったので自分なりに必死でこなしていました。ひとしきり見学も終わり丁度お昼休憩になったので私はいつも通りに自宅に自転車で戻りいつも通りのルーティーンをこなして作業所に戻りました。そしてフリータイムからいつも通りにまた山田さんと2人で作業に没頭していました。そしてそのまま就業の時間になり「じゃぁ、また来週!」とスタッフさんにもお声を掛け帰宅しました。帰宅してからもいつも通りに過ごし、翌十津の午前中の通院もいつも通り行って午後、少し疲れた気がしたので軽装に着替えてベッドに入りました。ふと目が覚めた時はもう真っ暗で夜9時近かったと思います。そのとき体に異変を感じました。トイレに行こうとして立ち上がろうとっしても力が入らなくて立ち上がれません。何とか近くのデスクチェアにすがって立ち上がりましたが転んでしまいました。「あれ!なんだろう!」と一抹の不安を感じながら3回ほど転んでは立ち上がり何とか用は済ませましたが、歩けません。その辺から記憶が薄れて行ったと思います。報道で見ていたコロナウイルスに感染してしまったかな?。でもまさかなと思いながらベッドまで何とか行き着きそのまま寝たと思います。翌日の午後に目が覚めた時には今まで経験がない様な頭痛と下痢が始まりトイレに入りっぱなしの状態だったと思います。昨日クリニックに入って来たばかりだし日曜日デスので休診です。その辺からまた意識が薄れていきました。これは「多分」ですがPCR検査を受けなきゃいけないと思ったかどうだかどうやって普段なら歩いて10分と掛からないむりょうのPCR検査場に行きました。朝のたぶん9時半ごろ検査を受けてまた自宅までよろよろと歩いて帰ったようです。帰る途中で薬局によって違反の解熱剤を買って飲んでいたようです。この辺の記憶は「霧の中」をさまようような感覚でした。恐らく火曜日になってからTVで見聞きしていた大阪府保健センターに電話を掛けたようです。この辺も覚えていません。ただ覚えているのは電話に出てくれた方が「すぐに救急車を呼びなさい。重症のような気がします。」と、ここだけは覚えています。実際に救急車は何度もお世話になっているせいか、無意識の内に掛けて救急要請をしたようです。後から訪問看護師さんから聞いた話では約束の時間に部屋のかぎがかかっていて応答がなくて心配したという事でした。普段、訪問看護師が来てくれる週2回の日は作業所から帰ってどんなに疲れていても、たとえ寝込んでいても部屋の鍵だけはいつも開けていました。看護師さんは私の自転車が止めてあるのも確認してそれから作業所やその他あちこちに連絡を取ったそうです。でもその日は何も記憶がありません。夜中になって大阪府保健センターから電話があって「コロナ陽性です。」と言われたことは覚えています。まさかとは思いましたが待てど暮らせど連絡が来ない事を無意識の内に「もしかしたら・・・。」とおもいはじめました。次ぐ水曜日に普段は来ない私がお世話になっている訪問看護センターの責任者の方が防護服を身にまとって訪問して下さいました。そこで少しお話をして少しづつ意識が回復してきました。それでもまだ「まさか陽性なんて…。」という気持ちは残りましたが、その後保健センターから今一度電話があり「1人暮らしの方で食事の用意が出来ない方には配色しますのでお待ちください。」と言われたのは覚えていますが一向に現れませんでした。何か見捨てられたような気持に陥り「このまま死んでいくのだな。」と思いました。
皆さんにご迷惑とご心配を掛けました。
そんな状態ですから毎日楽しみにしていたはずの作業所に連絡も取らず、ただ寝て過ごしました。翌週になってすこし気持ちが落ち着いてきたらしく、久しぶりに普段愛用しているパソコンを見ました。まぁ、大型の自作パソコンなので必要以上のスペックで組み立ててこれまた必要の2倍以上の冷却FANを積んでいるので普段も24時間稼働したままなのですが。驚いたのは家計簿ソフトが開いていてそれまでのほとんどない記憶なのに毎日家計簿がいつも通りに記載されていてデスクの上に記載した後のレシートが積んでありました。もう10年以上は行っていますが、こんな状態でも家計簿をつけるなんて習慣ってすごいなと我ながらに感心したのと呆れたのと両方の気持ちが湧いてきました。そのご自宅療養機関が確か木曜日にあけたのでしたが、そこで初めて自分で作業所に電話をしました。この間、感染症だけに自宅訪問も出来ずなす術がなくてご心配をかけてしまいました。「明日から行きます。」と申し出ましたが、サービス管理責任者である吉田さんが「無理しないで来週から様子を見ながら半日でもよいからおいで。」とおっしゃって下さいました。電話を切ってから情けないやら訪問看護事業所の皆さんも含めてとんでもないご迷惑をおかけっしてしまった。」と情けなくて自分で今まで何でもできると思っていたのが出来なかった悔しさで涙がこぼれました。おかげさっまでよく月曜日から半日ずつ出勤して体を慣らしている最中です。後遺症な後遺症なのか、後遺症名の午後になると頭痛が始まるので1日作業所にいる時はお昼休憩の時に解熱剤を飲んで今も通っています。でも幸いな事に他には体力が落ちて体重が減った事を除けば大分回復してきた実感があります。此れも全て周りに居てくれている、又は関わってくれている皆様のお陰と官舎の念仕切りです。渡して時にはこれでもか、と言うくらい気を付けてきました。食事とタバコ以外はすべてインターネットで注文して相手に肩に無理を言って運送会社はもちろんのこと、配達員の方まで指名してきました。どこでどう罹患したかは定かではありません。是非、皆さんも私のような思いをなさらいで済むよう、十二分にお気を付けください。最後に、現状の大s寡婦の保健センターはパンク状態です。実際救急要請してから自宅に来るまでに5時間かかりましたし、それから入院先を探すのに救急隊の皆さん5人がかりで5時間粘って下さいました。TVの報道でいわれているっベッド利用%はあくまで保健センターが「記録出来た分の数字」であって実際とは乖離しています。実際はほぼ毎日平均25名くらいの方が命を落とされて空いたベッドの数です。本当に油断大敵なのですが、細心の気を配ってもこの有様です。行動制限のないお盆休みでしたが、こういう時こそ細心の注意を払う事をお勧めします。今回お世話になったり沖図解をくださった皆様に最大限の謝意を申し上げます。本当にありがとうございました。簡単ではありますが、今回の顛末を書かせて頂きました。