EAGLES~私の青春を彩った、至高のバンド~

ウエストコースト〜カントリーロックの時代

 私がこのグループを知ったのは中学1年生の夏だった。ちょうど、第2次ビートルズブームのころであったが、私はFMラジオから流れて来た「ホテル・カリフォルニア」に心を奪われた。そして同じく洋楽好きの父にカセットテープに録音したこの楽曲を聴いてもらったところ、レコードを買ってもらえた。そこからこのバンドのレコードを小遣いやお年玉を貯めて買い集めたのだが、私が高校入学した年に発表した「THE LONG RUN」を最後に活動を停止してしまった。勿論そのほかのミュージシャンの楽曲もたくさん聞いたが、イーグルスを超えるミュージシャンはなかなか現れなかった。勿論東京での日本公演にも足を運んだ。あの時の興奮と感動を忘れる事は無い。先日、メンバーの一人、グレン・フライの訃報に触れ、もう一度、根本的な所からこのバンドの事を知りうる限り調べてみる事にした。

イーグルスの結成

イーグルスの結成の先駆けとなったのは、1971年にリンダ・ロンシュタッットのバックバンド編成のためにミュージシャンが集められた機会であった。これにグレン・フライ、ドン・ヘンリー、ランディ・マイズナー、バーニー・レドンの4名が顔を合わせ、後に彼らは独立して1971年8月にバンドを結成することを思いつき、リンダ・ロンシュタットが所属していたアサイラム・レコード(ロサンゼルス)からイーグルスとしてデビューした。メンバーのグレン・フライが当時同じアパートに住んでいたシンガーソングライターのジャクソンン・ブラウンと共作した「Take it eazy」が1972年にいきなりシングルヒットを記録。続く「Witchy Woman(魔女のささやき)」も全米ヒットとなった。デビュー当初は一般にはカントリー・ロックのイメージが強かった。マルチプレーヤーであるバーニー・レドンが演奏するテレキャスター、バンジョー、スティールギター、マンドリンのサウンドがバンドのイメージを決定付けていた。特にバンジョーをヒューチャーした「Earlybird(早起き鳥)」などの楽曲にみられるブルーグラス要素をロックのダイナミズム融合させた点は斬新であった。プロデューサーはグリン・ジョンズで、既にローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンのデビューアルバムなど、ロック志向の強い多くの作品にエンジニアとして関わっていた経験を持つベテランだったが、レコーディング時にはイーグルスをバラード・グループと見なして「君達はロックンロールに向いていない。」などと発言し、またどの程度カントリー要素をブレンドするかといった意見についてしばしば衝突を繰り返したとされる。

EAGLES    FAST EAGLES First

 2枚目のアルバム「ならず者」はコンセプト・アルバムで、基本的にはファーストアルバムと同様のサウンド構成にとどまり、バーニー・レドンカラーが強いブルーグラス的な楽曲とロック的な要素が共存しているものの、その音楽的成熟度としては格段の向上を見せた。タイトル曲の「ならず者」は後にリンダ・ロンシュタットやカーペンターズに至るまで、数多くのアーティスト達にカバーされているスタンダード・ナンバーとなっている。元々の音楽的ルーツとしてカントリー・ロック志向が強い4人であったため、前作のレコーディングにはかなりの労力が注がれたが、セールス的には失敗と言える有様であった。

null  EAGLES ならず者

そのため3枚目の「On the Border(オン・ザ・ボーダー)」においてはよりロック的なアルバムにすべく、2曲を収録したところでプロデューサーがロック志向の強いビル・シムジクに変わった。この3枚目のアルバムには「(Already Gone(過ぎた事)」と「James Dean(ジェームス・ディーン)」という2曲の佳作が少収録されている。またバーニー・レドンの紹介で、彼の親友でアマチュア時代のバンドメイトであったフロリダ出身のギタリスト、元Flow(フロウ)というバンドのドン・フェルダーが収録中に2曲において参加し、ロック的色彩を強める事になった。ドン・フェルダーは後にメンバーとして正式加入しており、ツアーではカントリー的な楽曲はバーニー・レドン、ロック的な楽曲はドン・フェルダーがリードギターを担った。

null EAGLES ON THE BORDER(オンザボーダー)

ロックのスターダム、絶頂期へ

 1975年、大ヒットとなった4枚目のアルバム「One of These Nights 呪われた夜」を発表。タイトル曲「One of These Nights 呪われた夜」をはじめとし、グラミー賞、ベストボーカル賞を獲得した「Lyin’ Eyes いつわりの瞳」、ランディ・マイズナーがボーカルをとる「Take It to the Limit テイク イット ザ リミット」と3曲のヒット曲を生んだ。オリジナルメンバーの音楽的なルーツであるカントリー色の濃い楽曲も依然見られるものの全体としてはロック色を強め、またタイトル曲ではAORやファンク、ダンスミュージック的要素を盛り込むなど、音楽的な幅はさらに広がった。セールス的にも大きな成功を収めている。
呪われた夜 EAGLES One of These Nights 呪われた夜

しかし、「On the Border(オン・ザ・ボーダー)」の頃から続いていたメンバー間の軋轢(あつれき)がこの頃から激化していた。デビュー当時には民主的なグループであったが、実質的に主導権を握ったドン・ヘンリーとグレン・フライの日頃の高慢な態度にバーニー・レドンは業を煮やし、バンドの音楽的方向性への疑問も重なった事で1975年12月に脱退している。それまでバンドの音楽的主柱の一人であったバーニー・レドンに代わるギタリストを探すのは難航したが、その間に初のベストアルバム「グレイテスト・ヒッツ1971-1975」をリリースした。

グレイテスト・ヒッツ EAGLES グレイテスト・ヒッツ

このアルバムは全米だけでも3,800万枚以上を売り上げ、全米歴代で最も売れたアルバムとして君臨し、プラチナディスク認定第1号となった記念碑的アルバムになるなどバンドの確固たる地位を築いた。バーニー・レドンの後任には元ジェイムス・ギャングのジョー・ウォルシュを迎えた。ジョー・ウォルシュの加入には反対するメンバーもいたが、音楽的にはよりロック色を強める結果となった。1976年には初来日も果たしている。

そして1976年、彼らの代表曲となる「Hotel California (ホテル カリフォルニア)」を発表。当時のロック界、ひいては都市社会の矛盾を揶揄(やゆ)したの様な歌詞と13本ものギターを重ねた完璧なサウンド・ワークによって、1970年代のアメリカンロックを代表する曲となった。ドン・フェルダー、グレン・フライが書いた曲にドン・ヘンリーが歌詞を書いたタイトル曲「Hotel California (ホテル カリフォルニア)」はかつての勢いを失いかけていたウェストコーストロックの凋落(しゅうらく)を皮肉るように、それは田舎町にやって来た新参者へ向けられた地元民の一時的な強い好奇心と彼が飽きられて行く様を歌った「NEW KID IN TOWN(ニューキッドインタウン)」、エゴ社会に警鐘を鳴らすかの様に好き勝手に振舞う無頼者が実は虚勢満ちていて内面に苦悩を持つ事を滲ませた(にじませた)「Life In The Fast Lane (駆け足の人生)」など、人間の性(さが)や振る舞いを唄っている様に見えながらも、実は暗に社会問題を提起する様な深みのある歌詞を載せ、今までと角度を変えた音響アレンジに載せて散りばめた、それはもうバンドとしての頂点を醸成(じょうせい)し、全世界的な大セールスを記録し、押しも押されぬロック界の代表格まで上り詰めた。

バンド終焉へ~そして再び再結成へ~

しかし、メンバー間の軋轢はさらに激しさを増し、ドン・ヘンリーとグレン・フライの高慢な態度の矛先はランディ・マイズナーに向けられるようになっていた。マイズナーは以前に比べて膨大になったツアーのストレスや、音楽的志向の違いも相まって、1977年のコンサート・ツアー中に脱退。マイズナーの後継として、元ポコのティモシー・B・シュミットが加入した。

コンサート・ツアーを終えると、次のアルバム制作に取り掛かる。当初は2枚組で1978年にリリース予定だったが、レコーディングに難航し、1枚組に縮小の上1979年まで掛かった。そしてリリースされた「ロング・ラン」においては、ハードロック、バラードさらにディスコ・チューンにまで多様な音楽性に挑戦するが、製作ヴィジョンが曖昧で展開するサウンドにもっぱら主張や一貫性はないなどと批判された。「ロング・ラン」発売に合わせてコンサート・ツアーを行い、1979年には2度目の来日公演をはたす。

画像無し EAGLES THE LONG RUN

この頃、バンドは人気絶頂期だったものの、相変わらずグレン・フライとドン・フェルダーの不仲や、曲作りのスランプなどからバンドは1980年に活動を停止。そして1982年、正式にバンドの解散が発表された。

バンドの活動停止後は各メンバーが個別の活動に入り、各自のソロ・アルバムを発表したり、繋がりの深いウエストコースト系のアーティストを中心にレコーディングへのゲスト参加などを行っている。グレン・フライは「ユー・ビロング・トゥー・ザ・シティ」や「ヒート・イズ・オン」が大ヒットし、ドン・ヘンリーは「ボーイズ・オブ・サマー」と「エンド・オブ・ジ・イノセンス」でグラミー賞ベスト・ロック・ボーカル部門を受賞し、ソロとしても成功を収めた。

そして再結成へ

コンサート・ツアーを終えると、次のアルバム制作に取り掛かる。当初は2枚組で1978年にリリース予定だったが、レコーディングに難航し、1枚組に縮小の上1979年まで掛かった。そしてリリースされた『ロング・ラン』においては、ハードロック、バラードさらにディスコ・チューンにまで多様な音楽性に挑戦するが、製作ヴィジョンが曖昧で展開するサウンドにもっぱら主張や一貫性はないなどと批判された。『ロング・ラン』発売に合わせてコンサート・ツアーを行い、1979年には2度目の来日公演を果たす。

この頃、バンドは人気絶頂期だったものの、相変わらずグレン・フライとドン・フェルダーの不仲や、曲作りのスランプなどからバンドは1980年に活動を停止。そして1982年、正式にバンドの解散が発表された。

バンドの活動停止後は各メンバーが個別の活動に入り、各自のソロ・アルバムを発表したり、繋がりの深いウエストコースト系のアーティストを中心にレコーディングへのゲスト参加などを行っている。グレン・フライは「ユー・ビロング・トゥー・ザ・シティ」や「ヒート・イズ・オン」が大ヒットし、ドン・ヘンリーは「ボーイズ・オブ・サマー」と「エンド・オブ・ジ・イノセンス」でグラミー賞ベスト・ロック・ボーカル部門を受賞し、ソロとしても成功を収めた。

セールス

同年代に活躍したクイーンやレッド・ツェッペリンなどと比べると実質的な活動期間が短く、リリース作品そのものが非常に少ないが、全米レコード協会(RIAA)の認定でアルバム総売上枚数が1億枚を超えているのは、イーグルスとビートルズ、エルヴィス・プレスリー、ガース・ブルックス、レッド・ツェッペリンの5組だけである。そういう面からも、イーグルスの(特にアメリカにおける)人気ぶりが伺える。

作品

オリジナル・アルバム
1972年 『イーグルス・ファースト』 Eagles (22位)
1973年 『ならず者』 Desperado (41位)
1974年 『オン・ザ・ボーダー』 On The Border (17位)
1975年 『呪われた夜』 One Of These Nights (1位)
1976年 『ホテル・カリフォルニア』 Hotel California (1位)
1979年 『ロング・ラン』 The Long Run (1位)
1980年 『イーグルス・ライヴ』 Eagles Live (6位) — ライブ盤
1994年 『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』 Hell Freezes Over (1位) — 再結成アルバム
2007年 『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』 Long Road Out Of Eden

シングル
1972年 Take It Easy (12位)
1972年 Witchy Woman (9位)
1972年 Peaceful Easy Feeling (22位)
1973年 Tequila Sunrise (64位)
1973年 Outlaw Man (59位)
1974年 Already Gone (32位)
1974年 James Dean (77位)
1974年 The Best Of My Love (1位)
1975年 One Of These Nights (1位)
1975年 Lyin’ Eyes (2位)
1975年 Take It To The Limit (4位)
1976年 New Kid In Town (1位)
1977年 Hotel California (1位)
1977年 Life In The Fast Lane (11位)
1978年 Please Come Home For Christmas (18位)
1979年 Heartache Tonight (1位)
1979年 The Long Run (8位)
1980年 I Can’t Tell You Why (8位)
1980年 Seven Bridges Road (21位)
1994年 Get Over It (31位)
2003年 Hole In The World (69位)
2007年 How Long (101位)
2008年 Busy Being Fabulous
2008年 What Do I Do With My Heart

weitten by 就労継続支援B型事業所 ユアライフ新大阪